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「ねえ、ミユ、ちょっと冒険してみない?」

 ――ミナモシティ、春の朝。
 学校が春休みなので、テレビを見ながらのんびり朝食を食べていたミユの耳に、あまりにも突然な母、アミダの声が飛んできた。
 飲んでいた牛乳を噴き出しそうになるのをなんとか堪えて、「はあ?」と一言聞き返した。
「だから、冒険。ポケモン片手にいろんな町を回るのよ」
「いや、そういうことを聞きたいんじゃなくて、なんであたしが冒険しなきゃなんないの」
「冒険は楽しいよ? あたしもミユぐらいの時にね、知り合い二人と家出同然の旅をしてね、突然知らない町に入り込んで――」
「それは何十回も聞いた」

 アミダの話によれば――どこまでが本当なのかは知らないが――ベカとウィーナという同じ年頃の男友達に半ば強引に「自分探しの旅」に連れ出され、
 気がついたら地図にもない変な町にいて、走り回ったり眠ったり真っ暗な場所にいたりして、そして気付いたら自然と大事件を解決していた、という。
 つまり話の核心を全く欠いているのだが、そこはアミダ自身よくわかっていないらしい。挙句の果てには、あれは恐ろしく長い夢だったんじゃないかとまで言っている。

「だから、度胸をつけなさい、ってことなの」
「結論が全然かみ合ってないけど」
 ちょっと複雑な話になるとすぐ無理やり結論だ、とミユはため息をつく。
「だいたいさあ、知ってるでしょ? 来週から学校始まるんだけど」
「ああ、それなら大丈夫よ。キャンセルしといたから」

 ――キャンセル?

「……え?」
「一年間冒険の旅に出て人間を大きくしてきます、って言ったらね、あっさり認めてくれたから、大丈夫よ」
「いや、大丈夫って……そんなんでいいの?」
「荷物もちゃんと準備してるし、一人旅にはしないから安心しなさいよ」

 ――ダメだ。話が完全にずれてる。というか無視されて……あ、あたしの部屋の隅にいつからか変なリュックが置いてあったっけ、それだったんだね……

「ちょっと待って、なんかそれ、もう勝手に決まってる……」
 なんとしても止めなければ。確かに旅行は好きだが「一年間勝手に冒険してね」といわれて簡単にうなずく奴はどう考えてもおかしい。
 ということは、「一人旅にはしない」と言った。つまりそういうおかしい奴がほかにいるということだ。そこまで考えたとき、玄関のブザーが鳴った。
「あ、ちょうどいい。開いてるからどうぞ」
 そう言いながらもアミダは嬉々として玄関に駆けていき、そしてドアを開ける。
 リビングは廊下を通して玄関から一直線の位置だから、ドアの向こうにいる相手はリビングからでもよく見えるのだ。

「ベカ、ウィーナ、久しぶり! で、スピナ君に、ヒロ君。二人ともお父さんそっくりじゃない。これなら大丈夫ね」

 ――ああ、親が親なら、子も子、ってわけね……。
 ミユの冒険が、始まってしまった。     (#1 W 10.04.25)



 街の南から西にかけて海が広がるミナモシティ、歩いていると潮風が爽やかに吹き渡りミユを含めた海好きにはたまらない街である。
 海の水は、世界最高峰というわけではないが、それでも綺麗であり、水深3,4メートルくらいの地面も見ることが出来るぐらい透き通っている。

 南の海辺には巨大な乗船場もあり、一年に一度世界一周旅行をするための高級客船"ニュー・サント・アンヌ号"が停泊することでも有名で、
 その日にはいかにもお金持ちそうなスーツを着こなした方々が街のいたるところを写真に収めたり、聞き慣れない言葉で喋りながら街を観光しているのを見ることが出来る。

 またこの街にはホウエン地方でも群を抜いて高くそびえ立つ、「欲しい物は何でも揃う、安さ品揃え世界一」がモットーのミナモデパートも存在し、
 テレビで「デパ地下特集」なんて番組を放送するとよくこの見慣れたデパートが映ることも多い。

 そんなミナモシティの南東のほう、「ポケモンだいすきクラブ・ミナモ会館」の横に位置する白いコンクリート作りの一軒家にミユは住んでいた。
 一階に居間とかトイレとかがあり、二階にはミユの部屋がある。大人達は昔話に花を咲かせるとのことで、ミユ含め子供達はすごすごと二階へと追いやられてしまった。


「実は俺も冒険については今日聞かされたばっかりだ」

「僕も僕も、起きたら枕元にでかいバッグが」

 どうやら二人もミユと同じように、今まで冒険について親から聞かされてはいなかったようだ。

「でもなんで言ってくれなかったんだろう? 別にこんなに急じゃなくてもいいじゃん?」

「それはきっと、急に言うことで俺たちに有無を言わさず冒険とやらをさせるためだろう。選択の余地を完全に消されたんだ」

「つまり僕たちは親に完全にシカけられてたってことなのか……」

 いきなり三人の間にどんよりとした重苦しい空気が生まれた。三人とも無言のまま数十秒の時が流れる、気まずいのは嫌いな性格のミユが話を切り出した。

「そういえば私このバッグ開けてないわ」

 そう言ってベッドの横にどっしりと置かれた重そうなバッグに手をかけると、男子組も「俺も見てないな」とつぶやきつつバッグの中身を取り出した。

「おーっと、なんか丸いの発見」

 真っ先に手に当たった、バッグの一番上に入っていた球状の物体を手に取る。
 バッグから出たそれは、上が赤、下が白に塗られているモンスターボールだった。しかもよく見ると中にポケモンが入っていることを示すランプが光っている。

 どうやらそれは男子二人も同じだったようで、ヒロが肩を落とし「これで後戻り出来なくなっちまったな……」とか細い声で言った。

「まぁ、その、なんだ、モンスターボール開けてみよっか」スピナの声に二人はうなずいた。     (#2 B 10.04.25)



『ポケモンを持つのは10才から。』

 この法律以上に名が知れたルールは、幼い子供たちがポケモンを自力で捕まえようとして
 危険な目に合わないようにする為にできたらしい。
 そのため10才の誕生日を迎えた子供は各地方に所在する"博士"と呼ばれる人から
 炎・水・草タイプの3種類のポケモンのうち1匹を貰えるようになるのだ。
 稀に10才を迎えず野生のポケモンと打ち解けあい、手持ちにしてしまう子供もいる。

「で…… 誰からボール開けるの?」スピナが問いかける。
 少し悩んでからヒロが提案した。「3人同時に開けてみるか?」
「でもこれ、勝手に開けていいのかな?」ミユはふと心配に思い、親に訊いてみた方がいいのではと考えた。
「ぼ、僕は開けるぜ!開けちゃうぜ!」
 スピナはボールを持った両手を体から遠ざけながら開けるか開けまいかとしている。

「私は母さんに訊いてくるから一階に行っとくよ。」
 ミユは階段を降りて大人達が歓談している1階へと向かった。

 ヒロは苦笑いを浮かべながらスピナに顔を向けた。「ボール開けないの?」
「うぐぐ…… やっぱりどうしよう……もしこの中にギラティナとか入ってたら僕対処できないし……」
「ねーよ」

 ミユ、スピナは共に11才。
 ポケモンと遊んだりした事は勿論あるのだが、トレーナーとしてポケモンを持った事はない。
 12才のヒロも同様である。
 学校へ通うのは9才まで。しかし10才を超えても進学して勉学に励む者がいる。3人は後者に入るのだ。
 そんな我が子を見て退屈だと感じたのだろうか……まさか親に冒険へ出ようと言われるなんて。     (#3 N 10.04.25)



「らめえ! もう開けちゃう!」

 わけの分からない奇声をあげて、スピナはついにスイッチを押した。目がくらむほどの白光。
 彼はモンスターボールを見るのも、触るのも初めてだったから、スイッチを押すときのその感触は指に残るようだった。
 そしてボールを開けたときに襲ってくる、全身を焼き尽くすような熱も彼は知った。それは決して心地良い熱ではなく――

 ――熱?

「ね、熱い」

 ボールが光を放つことを止めると、視界がはっきりとして、部屋に白っぽい煙が漂っているのが分かった。
 スピナはその煙に思わずむせた。足元からは火の爆ぜる音が聞こえる。というか、僕のズボンが燃えている。
 ヒロはあらかじめ用意していたかのように、水をいっぱいに汲んだプラスチックのバケツを、スピナにぶっかけた。
 火は叫び声をあげ、その体をくねらせるようにして消えていく。あとには目と鼻とを刺激するような白い煙だけが部屋に残る。
 スピナのズボンは膝下まで燃えてしまい、また頭から水をかぶったので、その姿はさながら野生的な短パン小僧である。

「おいそのバケツどこから持ってきたんだお前」
「ご都合主義という言葉があってだな。それよりお前、見てみろ」
 
 スピナはヒロに指差されたほうを見やる。そこにはミユの勉強机の上で、嘴から火を放っている赤い小鳥の姿があった。
 彼はその小鳥の姿を認めると、しばらくただ呆然と眺めていたのだが、やがて何か思い出したかのように半狂乱になって、それを抱き上げようと駆けていった。
 その炎の小鳥の名を"アチャモ"といった。彼はこのポケモンを知っていた。このポケモンは某巨大掲示板でも話題で、
 そこには自分のアチャモを逐一アップロードする「現在のアチャモの様子を報告するスレ 47チャモめ」といったスレが山ほどある。
 彼はそういったスレを見つけると必ず最初から最後まで目を通した。そのくりくりした黒い瞳、今すぐにでもモフモフしたい赤の羽毛。
 そしてこのポケモンの鳴き声! ねえ、アチャモは「ちゃもー」って鳴くんだよ! 萌えじゃね!?

「アチャモー!」

 スピナがアチャモを抱き上げると、その小鳥はニヤリと不敵な笑みを浮かべて、その喜色満面な顔に"火の粉"を放った。
 なるほど、先のスピナのズボンが燃えていたのも、こいつの仕業だったのか。
 ポケモンのほうの性格も偏屈なものだったが、主人のほうはもっと変だ。スピナはアチャモの攻撃などお構いなしに、その頬を顔にすり寄せようとしていた。

   ***

「次はヒロ先輩の番っすよね」
 スピナはとても幸福そうな顔をしてそう言った。その顔や体は火傷だらけなのに、お前は痛みを感じない身体なのか?

「俺か……」

 ヒロはボールのスイッチに指を置く。出来れば俺の身体に合うような、大型ポケモンが良い。それも強く、また優しさのあるポケモン。
 そういう意味で、俺が最初に思い浮かべたポケモンはギラティナだった。だがそんなポケモンを俺が手懐けられるとは思えない。
 だから、進化していくうちに大きくなるような、強くなっていくような、そんなポケモンを望んだ。

 ヒロは深呼吸をひとつして、スイッチに乗せた指に力をこめた。

 先のような白光があって、やがてそれも止むと、そのポケモンの姿が分かった。
 その姿を見ると彼は全身が脱力しきってしまい、思わず床に膝をつく。スピナの笑い声が聞こえてくる。彼は耳に両手をあてた。
 そのポケモンは"コイキング"だ。生魚独特のぬるりとした臭いが部屋に漂う。
 コイキングは水を求めて懸命にひれを動かし、髭を踏みつけてはまた跳ねることを繰り返している。
 ヒロの想像とは正反対のポケモンの姿がそこにはあった。

「ねぇねぇ 今どんな気持ち? ギラティナみたいなのが良いと思って開けたのに
 500円の価値しかないカスポケモンだったけど? ねぇ 今どんな気持ち? ねぇねぇったらー」

 スピナが息を弾ませて、ヒロの隣でトントンとジャンプを繰り返している。

 ヒロは歯を食いしばって、その手を固く握りしめた。そこにあるのは怒りではなく絶望だった。ああ博士よ、父よ。
 僕から目を離さないで 守ることをせよ。コイキングはついに衰弱したか、跳ねることをやめ、全身を痙攣させて床の上に横たわった。
 ヒロは見るに堪えなくなって、みすぼらしいその魚をボールに戻してやる。

「はー、面白かった。あとはミユだけだね」     (#4 I 10.04.25)



 二階とはうってかわって、一階の居間からは「キャッキャウフフ」と楽しそうに団欒している声が響いてくる。
 空気を壊すのは若干申し訳ないと思いながらも、居間のドアを開けて中に入った。

「おかあさーん、これなんだけどさ」

 居間に入るとベカおじさんとウィーナおじさんに挨拶されたので、返事をしながらお母さんにバッグに入っていたモンスターボールを見せる。

「これがバッグに入ってたんだけどさ、このボール開けちゃってもいいの?」

 そう尋ねると、お母さんはやんわりと笑顔になり私の肩に手を添えて言った。

「当たり前じゃない、冒険するにはポケモンが必要でしょ? そのポケモンはお母さんからの出発祝い、ポケモンと一緒にいっぱい楽しんでくるのよ?」

 実際は行きたくない、家でのんびりジュース飲んで昼寝したい、というのが本音だが、
 こんな笑顔で言われちゃ断るにも断れない。とりあえず「うん、ありがと」とだけ返しておいた。

「そういやベカは何プレゼントしたんだ? やっぱりアチャモか?」

「当たり前じゃん、バシャーモは最強なんだ。な?」

 ベカおじさんがそう言うと、いきなり左のほうから「バシャー」とかいう声が聞こえたので振り向くと、
 テレビの前のソファーに、昼寝をしているお母さんのように寝転がっている体格のいいバシャーモがいた。
 予想にもしていなかったので思わず「うわっ」と声が出た。

 ちなみにバシャーモの腰の下にしかれているクッションは数ヶ月前私が学校で作ってきたものなのだが、毛がつかないだろうか、燃えないだろうか、心配だった。

「で、そういうウィーナは何プレゼントしたのよ?」

「俺? 俺はこの前博士と一緒にコイキング釣りをしてたんだが、そんときに珍しくミズゴロウが現れてな、
 思わずゲットしたそいつをプレゼントしてやったよ。旅が終わった時にヒロが俺にラグラージを見せてくれれば嬉しいんだが」

「なるほどねー、やるじゃん」

 アチャモもミズゴロウも中々珍しいポケモンだと聞いている、そんな稀少ポケモンをプレゼント出来るなんて……
 やっぱ大人って凄い。もしかしたらお母さんも凄いのかも。

「ねぇお母さん、お母さんってポケモンバトル強いの?」

 そう尋ねるとベカおじさんがそれに答えた。
「ミユちゃん、それは愚問というものだよ。アミダは昔バトルフロンティアにあるバトルタワーでひでぶっ!」

「ふふ、なに言ってんのよ、お母さんが強いわけないでしょう? 旅が終わったころにミユとバトルしたらお母さん負けちゃうかもね。」

 お母さんの張り手をくらい昏倒したベカおじさんにウィーナおじさんが駆け寄っている。
とりあえず私はお母さんの意外な一面が見れたことに満足し、「うん分かった、ありがと」とだけ言って居間から出た。

 とりあえず、「お母さんとバトルする」という私が旅に出たくなる理由が一つできたので、まずはそれを目標に旅に出ようと思う。
 何も目標が無いより何か目標があったほうがきっと楽しくなると思うし。

 とりあえずボールの中にいるポケモンを見るために、私は二階の自分の部屋のドアを開けた、すると。

「ひっ……ぇぐっ……」

 ヒロが泣いていた。     (#5 B 10.04.25)



「ス……スピナだめじゃん!なに年上いじめてんの!」
「いやいやいや僕いじめてないっすよ」
「そうだよ。スピナは何もしてない。ただ俺のポケモンを嘲笑ってくれただけだよ」

 この様子から察するに、既にモンスターボールを開けたようだ。
 先程親達から聞いた話から、スピナはアチャモ、ヒロはミズゴロウだったはず。
 ミズゴロウなら可愛いし進化しても見た目はともかく強力なポケモンになる。
 何故それを嘲笑う必要が?
 もしかしてミズゴロウ以外のポケモンだったのかも。ここは遠回しに訊ねてみよう。
 ミユはヒロに言った。

「きもくない?」
「は」

 やっぱり無理があった。

 ***

「―― そういうことか……」ヒロはため息をついた。

 先程ミユが1階で聞いた話をヒロ達に聞かせたところ、ボールの中のポケモンが何故コイキングなのか納得したようだ。
 スピナもコイキングについて馬鹿にしてしまったことは(ほんの少しだが)謝ったようだ。

「にしても中身の確認もしないなんて……僕のはちゃんとアチャモ入っててよかった」
 火の粉を浴びながらもアチャモに頬ずりをするスピナ。
「うわーマゾだー」
「スピナの親父はバシャーモ狂だからな……その子供が影響されないわけないよな……」

「そういえばミユのポケモンは?」
 スピナに言われて思い出した。私のポケモンはなんなのだろう。
「ちょっと待ってね。今見てみる。」

 リュックをあさりボールを取り出す。
 ボタンを押して、赤い光と共に現れたのはチコリータだった。     (#6 N 10.04.25)



「お、チコリータか。やっぱり女の子なだけあって可愛いもの好きなんだな」
 スピナが楽しげに言う。ミユも思わず笑みがこぼれる。そして、この母親からの「プレゼント」を、素直に嬉しいと思った。しかし、

 ――でも、これから当てのない冒険なんだよなあ……。

 やはり現実は現実である。
 すると、スピナのそばにいたアチャモがトコトコと近寄ってきた。そして、キッと目を吊り上げる――攻撃態勢だ!
 ただでさえ炎に弱いチコリータである。ミユはとっさに自分のボールをつかんだ。が、次の瞬間――

「チコッ!」

 ミユがボールを構えるより早く、チコリータが小さな首で思い切り弧を描いた。「はっぱカッター」だ。
 勢いよく飛び出した葉っぱはアチャモに直撃する――はずだったのだが、わずか数センチの至近距離にいながらアチャモは攻撃をかわしてのけた。
 ミユは、とても子供のアチャモとは思えないパフォーマンスに目を疑ったが、
 もしこれがバシャーモ狂・ベカが直々に厳選した個体だとしたら、廃人レベルの能力を備えていても不思議ではない。スピナがちょっとうらやましい……

「ぐあああああああ!」

 突然、目の前で叫び声があがった。アチャモをかすめたはっぱカッターがそのままスピナに向かって直進し、顔中にある火傷に直撃したらしい。
 その尋常ではない痛さに、スピナは顔を抑えて暴れまわる。普通なら「大丈夫?」と心配するところだが、ミユは事態を把握しきれずに混乱していた。
「ちょっと、ここあたしの部屋なんだけど!」
 あまりにも正直な叫びだったが、当然スピナには届かない。足をバタつかせながら悶えている。
 ――バシン!
 スピナの足が何かを蹴飛ばした。ヒロのモンスターボールだ。高く上がった紅白のボールは、まるで狙ったように窓に向かって飛び、吸い込まれるように落ちていった。
「……ちょっとスピナなにやってんのよ、せっかくもらったボール蹴飛ばしてどうすんの? だいたいこの家海沿いなんだからもうボールは――」
 ミユはまだ暴れているスピナに事態の重大さを伝えようとしたが、突然右の肩をたたかれた。振り向くと、ヒロが不敵な笑みを浮かべているではないか。

「心配しなくていい。これでミズゴロウをもらう口実ができたよ」

 ――あ、そういえばコイキングだったっけ。     (#7 W 10.04.25)



「哀れなり、コイキング」     (#8 K 10.04.25)



 声の聞こえた階段方向へ目を向けると、そこにはベカが佇んでいた。
「話は聞かせてもらった!ヒロ君これはハンカチだ!まずはその涙を拭いたまえ!」
 そのハンカチにはところどころポケモンの羽毛がついていた。何のポケモンかはお察しの通り。
「自分のハンカチ持ってるんでいいです」
 丁寧に"ヒロ"と刺繍された青いハンカチを見せられるなりベカは(´・ω・`)←こんな顔をしていた。

「とりあえずだ……3人とも1階においで。これから始める旅に関して話をするから。
 コイキングとミズゴロウの件についてもウィーナに伝えなきゃね」     (#9 N 10.04.26)



 いつの間にか1階は静かになっていた。昔話にも一区切りついたのだろうか、と思ったが、階段を下りてすぐ、大人たちの心配げな表情に迎えられて、本当の理由が分かった。
 というか、冷静に考えれば、さっきの上を下への大騒ぎが床一枚隔てた1階で聞こえなかったはずはない。ひょっとしたら外にも丸聞こえだったかもしれない。窓開いてたし。

「……大丈夫?」

 大人3人の先頭にいて、すでに階段に片足をかけていたアミダが困惑した表情で言った。
 それもそのはず、ベカは短パン小僧な上に顔中がすすで真っ黒、右の頬には切り傷がついているし、
 ヒロは泣きはらした目で一番後ろにいる父・ウィーナをにらみつけている。その間に立っている唯一マシなミユは、なんともいえない複雑な表情。

「あ……うん、一応大丈夫、だと思うけど……とにかく、冒険のこともうちょっと詳しく聞きたくて」
「その前に」


 ミユが苦笑いしながら説明していたのを静止したのはヒロである。真っ赤な目を鋭く吊り上げ、ゆっくりと階段を下りていく。

「まず、ミズゴロウを渡してほしい」

 ウィーナは首をかしげた。息子にはちゃんとミズゴロウを渡したはずだが?
「渡して、って言ったってなあ、ボールに入ってるだろ?」
「コイキングがラグラージに進化することはないだろ」
 息子の謎かけのような言葉にウィーナはまたも首を傾げたが、すぐにその意味を理解した。そして真っ青になった。
「う……いや、すまん。本当に。ごめん、悪かった」
「わかったならいいよ。それで『本物』はどこにあるのかな」
 ヒロは追い詰めるように言う。比較的マイナス志向の強い彼は、「実は俺のかばんにあったんだ」なんていう楽観的な答えを予想しなかった。
 おそらくは、今朝早く言われるままに出発したカイナシティの家に。
 しかしウィーナの口から出た言葉はヒロの予想をはるかに超えていた。

「家に……コガネの実家に……」

 ヒロだけでなく、その場にいた誰もが硬直した。

「釣りの次の日……ミズゴロウ以外は要らないと思って送ったんだ、ペットとしてなら、そんなに悪くないから……」

 ヒロは、心の中で何かが音を立てて崩れていくのをはっきりと感じた――。     (#10 W 10.04.26)



 草の間から潮の匂いがしてくると、スピナ親子は歓声をあげて波打ち際まで駆けて行った。
 海に近づくと、波が弾けて細かい飛沫が彼らを迎えた。親子は焼けるような砂浜を裸足で、
 まるでどこかのエロゲのように、太陽と海とを背景にしてどこまでも追いかけっこをする。

 対する親子組は、彼らとはうってかわって沈んだ雰囲気である。
 ウィーナは「仮にコイキングだろうと主人に忠誠を誓い、
 ボールに入ってくれたポケモンを捨てる者があるか」とかぶつぶつと呟いているし、
 ヒロは「PCボックスも使わない、時代に逆流する父さんが悪い」とか言う。
 ミユたちもこれには苦笑いをすることしかできず、海に出るとさっそくボールを捜しに、その親子から離れていった。

   ***

「さて無事コイキングも見つかったわけだが」

 天真爛漫というのはこの親子のことを言うのだろう、とても幸福そうな顔をしてベカが言う。
 彼らはコイキングの入ったボールを沖合まで行って見つけると、街の古びた食堂に入って、
 息子たちはオムライスを、親たちはうどんと酒とを頼んだ。

「でも、大丈夫? ほんとにコイキングだけでやっていける?」
 ミユの母、アミダが心配そうに言う。何なら私のポケモンをくれてやっても良いよ、と。
「平気です。だいたい、父の言うことももっともですしね。
 こいつは主人に忠誠を誓ったポケモンだから、責任を持って俺が育ててやらないと」
「イイハナシダナー」
 ベカがうどんを啜りながら無表情に言う。
 ああいうAAを貼る人って、大抵こんな顔をして貼ってるんじゃないかな。

 で、ウィーナはそんな息子に申し訳なく思ったか、
 赤色の濃淡がくっきりと分かる液体の入った注射器をヒロに渡した。
「なにこれ覚醒剤?」と訊いてくるヒロに、父親はそれに近いものだ、と言った。

「ドーピングというやつだ。俗にタウリンとか、インドメタシンとか言われるあれだな。
 もし何だったらそれをコイキングに打ってやるといい。強さが変わるか分からんが、副作用はないから安心しろ」

 ドーピングといわれるそれはとても高価であることをヒロは知っていた。
 ヒロは失墜しかけていた父親に、再び畏敬の念を抱いた。「ありがと」、聞き取れるかどうかというぐらいの声で、ヒロは
 大切そうにその注射器をリュックに入れる。

「……それでだな、君たちはこれからどこを冒険をするんだい?」
 丼の汁を飲み終えたベカが、息子たちにそう問いかけた。     (#11 I 10.04.26)



「カントー地方なんてどうかしら?そこから船に乗っていけば明日にはクチバに到着でしょ?」
「えっ、遠くね」
 ミユは驚いた。     (#12 B 10.04.27)



 ヒロ一家は両親の仕事柄、上司の振るサイコロの目によって住む場所をいちいち変えさせられる、いわゆる転勤族と呼ばれる人たちである。
 彼らはホウエン地方の色々な町に引越しを繰り返してきた。それでホウエン地方すべてを見て回ったわけではないが、大体の地理は知り尽くしていた。
 だから、ヒロ君にとって新鮮味に欠ける土地を旅させるぐらいなら、
 3人の誰もが知らないところへ行かせてやったほうがいいのではないか、とアミダは言うのだった。

「それにカントーのほうがトレーナーのレベルも高いし、良い修行になると思うの」
「なるほど。だがカントー行きの船は、今日はもう出ないぞ」
 その船なら午前中に出航してしまった、とウィーナ。アミダの顔に失望の色が浮かんだ。

「だが、方法はまだある」

 ウィーナの話は次のようなものだった。
 ジョウトの港、つまり"アサギシティ"に行く船が今日の午後にあるという。港までは翌日の早朝に着くそうだ。
 で、その時刻に間もなく、港にカントー行きの船が停泊するので、その船に乗り換えると良い、ということだった。

「しかしこの方法は手間もかかるし、やはり今日の出発は見送りにしてもいいが―― 
「行きます。というか、今日行きます」 
 ミユがきっぱりとした口調でそう言った。

 そうか、とウィーナは微笑んだ。「止めはしない」

「すごい伏線を感じる。今までにない何か熱い伏線を。
 アサギ……なんだろう誰かが来る確実に、着実に、俺たちのほうに。
 乗り換えのときに誰かと出会うだろうけど、絶対に流されるなよ」

 ウィーナが船乗り換え案を主張し始めたころから、ベカがぶつぶつとそう呟いていた。

 息子たちはベカの言うことがさっぱり、という顔をしていたが、ウィーナとアミダは彼の言わんとするところが分かった。
 だがこうやってわざわざ誰かに喋らせて話の前面に出すあたりが、狡い人だな、とか思っている。     (#13 I 10.04.27)



「さて、行き先も決まったことだし、きっちりと出発の準備を済ませなきゃね。」
 アミダはミユ達にそれぞれのリュックを持たせた。
「一応私たちの方で持ち物は準備しておいたけど……もし他に必要なものがあれば、自分でリュックに入れておいてね。」
 3人ともゆっくりと頷く。

「ジョウトに行く船の出港まではあとどれくらい?」
 スピナがベカに訊ねる。
「今の時間が……1時だね。出港は夕方4時だからあと3時間は余裕があるし、
 ミナモデパートにでも行って何か買ってくるといいんじゃない?」
 そう言うとベカは、スピナに財布を手渡した。
「それは 3人平等に使って。お釣りは返さなくていいから。それじゃ、行ってらっしゃい」

 話が終わるなり、スピナ達はベカに玄関の外へと強制的に追いやられてしまった。
 とにかく、4時になる前に買い物を終わらせなければ。
 3人はミナモデパートへ向けて歩き出した。

「スピナ、ちょっと財布見せてよ」
 ミユがスピナの手に握られた財布に触れようとすると、スピナは荒ぶる鷹のポーズでそれを回避した。
「この財布をどうするつもりなんだい!?」
「いくら入ってるのか確認しようと思っただけ。心配ならスピナが確認して教えてくれる?」
 言われるがまま、スピナは財布の中を覗き見た。
「えーと……うお!9000円も入ってる!」
「じゃあ1人3000円だな。スピナに持たせるのも心配だし今のうちに分けておこう。」
 ヒロの言い草にスピナは文句を言おうとしたが、確かに自分じゃ「間違って4000円使った!」なんて事態になり兼ねない。
 スピナはしぶしぶ、ヒロとミユに3000円ずつ配分した。     (#14 N 10.04.27)



 ヒロの「自分の好きな買い物をしよう」という意見に基づいて、私たち三人はデパート内で別行動を取ることにした。
 スピナは「限られた3000円でのエクストリームお買い物か……胸が熱くなるな……」とぶつくさ言っていたが私もヒロももっぱら無視していた。
 とりあえず二時間後には落ち合うことを決めて、私はとりあえず最上階からデパートを降りつつ買い物をすることにした。

 ミナモデパートはアウトレットモールのように横にでかい、しかし伊達にホウエン一を掲げているわけではなく、縦にもでかい。つまり超広い。
 その広さといったら、きっと開店時間から閉店時間まで全てを費やしてもそれだけでは回りきれないであろう店舗があり、
 そしてその店を全てデパート内におさめられるぐらいでかくて広い。つまり超広い。
 暇なときはミナモデパートに来ては買いもしないのに店を回って数時間潰している私にとって、二時間なんてあっという間に過ぎてしまうことが予想されるので、
 とりあえず可愛いオシャレグッズなんかを売っている店に行くのをこらえ、トレーナー御用達の店に行くことに決めた。
 本当は今私がいる最上階にある「Rose Marine」という香水販売店にもの凄く行きたいのだが、超頑張ってこらえる。
 今なら技マシン58を使わずとも「こらえる」を会得出来そうな気がするなと思いながらしぶしぶエスカレーターを下った。

 目指す「トレーナーズショップ コダック」はRose Marine―めっちゃ行きたい―のある階から一つ下にある。
 しかしデパートは広いので、同じ階であっても多少なりと歩かなければならないところが面倒である。さらにさらにコダックに行くには、
 これでもかと良い香りを店から吐き出している飲食店通りを進んでいかなければならず、小腹が空いている私にとっては地獄のゾーンだった。
 横に見えるショーウィンドウをチラ見しながら進んでいると、美味しそうなチョコレートパフェが見えた。
「安かったら食べよう」という雑念がさっき体得した「こらえる」を突き破り頭の中にやってきてしまったが、
 ガラスに近づいてみると「680円」の文字が目に入った。雑念もどこかへ消えていった。

 一度お腹が鳴ってしまい、同じようにガラス越しに見えるスパゲッティを眺めていた奥様に聞かれてしまい恥ずかしかったが、
 財布の中身は守り通し無事コダックに到着した。
 身を包んでいたどうしようもない倦怠感もやっと消えて、
 ここに踏み込んだらトレーナーとしての一歩を踏み出すのだという考えにちょっとした幸せを感じながら店に入った。さて何を買おうか。     (#15 B 10.04.28)



 ヒロはミナモデパート3階にあるドーピングショップ 「バリー・ボンズ」に足を踏み入れていた。
 店は窓を閉め切っていて、薬品や塩素特有の臭いがつんと鼻を突く。客の姿はまばらだ。白衣姿の男女2人組と、
 手練れらしい眼鏡をかけた知的なトレーナー、そんなのが3人だけで、子供はヒロしかいなかった。
 ヒロが彼らの間を歩くと、露骨に舌打ちする者もあれば、物珍しげにヒロの姿を目で追う者もいる。どちらも気持ちの良い視線というのではない。

 ヒロは父親からプレゼントされた、例の赤い液体の注射器を片手に店の中を巡回していた。
 これに似た物がきっとどこかにあるはずだ。だが一通り店の商品を見て回っても、これと一致する物はひとつもなかった。
 ただひとつ"タウリン"という小瓶に入った液体が、これに似ていたが、やはり赤色の鮮度や色の透き通り方が違って見える。
 ヒロはしばらく首を傾げた後、カウンターに立つ店員に尋ねた。
「すみません。説明書も無くて、分からないのだけど、これはドーピングの一種でしょう?」

 店員は牛乳の瓶底のようなレンズが入った眼鏡をしていた。理科系の男というところか。
「ふむ? こんなの、店には置いていないはずだけどね」
「あ、これは知り合いに頼まれて」ヒロは嘘をつく。

 理科系の男はヒロの注射器を取って、それを光にかざしてみたり、振ったり、においを嗅いだりした。
「……僕はいろいろな薬品を見てきたから分かるけど、これは水に赤い絵具を混ぜたもの、というのではない。
 これはドーピングの一種だ。僕には分かる。だけどこれはタウリンに似ているようで違うね、色の濃さとか、それにこれはちょっと粘りっぽい」

 僕の知らないドーピングだ、と男は言った。それがさもショックであるかのように、芝居がかった大声で。

「ううむ、少年。一滴でいいんだ。これを僕にくれ。研究してみたいんだ」
「構いませんよ」
 
 そう言うと理科系の男はニヤリと微笑んだ。男はヒロの注射器を握ったまま、
 きれいな跳躍―― その跳躍は後に繋がるダッシュの姿勢を崩さなかった ――でカウンターを飛び越え、そのまま全速力で店を出て行った。
 自動ドアが開き、閉まる。ヒロは男の一連の動きがあまりにも自然だったので、声も出せずにいたが、  やがて意識がはっきりとして叫んだ。「ひったくりだ!」ヒロは男のあとを追った。

 男はエレベーターに逃げ込んだ。ヒロは懸命に走ったが、あと一歩というところでエレベーターの扉が閉まってしまう。
 ヒロはエレベーターの行き先に目をやる。それはミナモデパートの1階―― 子供の遊具室があったり、迷子預かりセンターがあったりする受付の階 ――を示していた。     (#16 I 10.04.28)



 ヒロはすぐにエレベーター横の非常階段に駆け込み、一心不乱に駆け下りる。
 旅の最初から――というか始まってすらいない――かなり縁起が悪い。
 あの液体がなんなのかはわからないが、たとえ価値のないただの液体であったとしても、それは必ず取り返さなければならないと思った。

 最後の五、六段は一気に飛び降りて一階に着いた。
 白衣のひったくりの姿は見当たらない。――もうダメか、と諦めかけたそのとき、遠くから叫び声が聞こえた。
 それは、まぎれもなくあのひったくりの声――声がしたほうに駆け寄ってみると、ひったくり男が別の白衣の男に腕をつかまれ、もがいていた。
 彼は背が高く、細身で、髪を肩まで伸ばしていたが、軟弱な印象は少しもなかった。腕を引き離そうとするひったくりをしっかり押さえつけている。
 今は白衣を着ているが、スポーツウェアを着ても似合いそうだ。

「あの……すいません」
 ヒロは遠慮がちに白衣の男に声をかけた。
「ん? ああ、ひょっとしてこれの持ち主かな?」
 白衣の男はすでに注射器を取り返していた。ヒロはそれを受け取り、頭を下げた。
「あ、はい、そうです。捕まえてくれて本当に……」
「礼には及ばないよ。それより、その薬。絶対に他人に盗ませちゃいけないよ」
「え?」
「僕も研究員のはしくれだから、薬の知識はある方なんだけどね、それは『タウリン』に似ているけどまったく別の薬だよ。
 どんな効果があるかはわからないけど、かなり貴重なものだと思う」
「そうなんですか……?」
 ウィーナがいつそんな薬を手に入れたのだろうか。コイキングを渡してしまった息子への、せめてもの償いということか。
「あの、じゃあ僕は失礼します」
「そうか、元気でね。僕の名前はファイン。またどこかで会えるといいね」
 やがて、ジュンサー隊が駆けつけて、ひったくりは御用になり、その騒ぎが収まってからも、ヒロは一階の隅にあるベンチに座ったままだった。
 買い物のことはもはや眼中になかった。一刻も早く、この薬の謎を解明したかった。

  ――コイキングに使っていいのだろうか。それとももっと重要な局面まで取っておくべきか。

 今すぐミユの家に戻ってウィーナに聞けば教えてくれるだろうが、なんとなくそういうことはしたくなかった。
 自分で、薬の効果を、見届けたいのだ。

 時計はすでに3時を指していた。     (#17 W 10.04.28)



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