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片や時を同じくして、ミユたちは唯一の戦力であるチコリータを見失ったことで戦々恐々としている。
ただでさえ凶暴なポケモンが群棲するスリバチ山の洞窟地下で、戦力となるものがヒロのコイキングのみというのは、あまりに心許ない。
ミユのバッグにはピッピ人形が2つある。気性の荒い野生ポケモンの気を逸らし撃退する、大衆的な道具である。
しかし、これが尽きるのも時間の問題だ。一刻も早くチコリータを見つけなければならない。
ミユは冷静だった。2人の後ろを歩いていたドダイト少年に、事情を訊いている。
「分からない、チコリータなんて見なかった」
「でも足音とか、鳴き声とか聞かなかった?」
「……分からない」
ヒロは唇の端を引きつらせた。眉間に皺を寄せる。
「嘘ばっかり言いやがって。もとから怪しいと思っていたぜ。お前がチコリータをどこかに逃がしたんだ。
ここらには他にも怪しい人影があるし、もしかしてそいつらにチコリータを引き渡したんじゃないだろうな?」
それは極論だよ、ドダイトはため息をつく。
「まあ、とにかく、探しに行かなきゃ。このままじゃ心配で眠れない」
3人は地下に流れていく川に沿って歩いていたが、方向を切り替えて再び上流へと向かった。
3人は周辺を明かりで照らしながら歩を進めた。川のせせらぎを聞いて歩くと、気持ちは落ち着きを取り戻していくようだった。
***
炎が止んだらしい。スピナは湯舟から顔を出した。
ぼんやりとした視界の中で目に映ったのは、陽気な踊りを見せる"ブーピッグ"の姿だった。
この露天風呂の熱さにやられたのか、白い湯気の中、はずんだ声をあげて浮かれ騒いでいる。
その姿はまるでスピナのようだが、スピナ自身は何だこいつ、と極めて冷やかな感想を持つに過ぎなかった。
ブーピッグは軽快に跳ね、湯舟の縁に立つ。もしかしてこいつがミラーコートを放った張本人なのか?
視界がはっきりし始めたころ、スピナはあっ、と声をあげた。見るとその手には"炎の石"と"水の石"が握られていた。こいつ、俺の進化の石を奪ったのか。
もう片方の手には長方形をしたきらりと光る、黒い何かを持っている。携帯電話だろうか? そう思ったとき湯舟に浸かっていたチコリータが大きな声をあげた。
びっくりしてチコリータを見ると、チコリータは首の触手を伸ばして、黒い何かを持ったほうの手を叩こうとする。
が、ブーピッグはそれを嘲笑うように翻り、洞窟のさらに深くへと駆けていった。
なるほど、チコリータ。君はあれを探していたのか?
そうとなれば、ここは主人こそ違うが一致協力して、奴を倒そう。
後ろを振り返ると、進化したばかりのワカシャモが、水に浸かったせいか少し衰弱しているようだった。
先ほどのは少々手荒であったが、ワカシャモは自分の命を懸けて主人を助けようとしたのだ。
スピナは感謝する思いでワカシャモをボールに戻すやいなや、チコリータと共にブーピッグを追い始めた。
彼はそのとき、パンツしか身につけていなかった。
(#61 I 10.09.06)
まだ、携帯電話は見つからない。洞窟の中を、ドダイト、ミユ、ヒロの順で一列に並び、黙々と歩き続けていた。
なんで、あいつが俺たちを先導しているんだ?
ミユはチコリータがいなくなったことで頭がいっぱいだったようだが、ヒロはより冷静に状況を観察していた。
「なあドダイト君よ、携帯電話はこっちにあるのか?」
「多分そんな気がする」
振り向きもせずに答える。相変わらず男には無愛想な奴だ。
しかし……落とした場所は全く分からないと言っていたはずだ。ここにきて突然勘が冴えたとでもいうのだろうか。そうは思えない。
そのまましばらく歩いていると、ひんやりした洞窟内が急に蒸し暑くなってきた。
視界の先に霧のようなものが立ちこめているのを見ると、おそらく温泉が湧きだしているのだろう。
温泉にたどり着くと、ドダイトが突然足を止めた。松明で周りを注意深く照らしている。……後ろの2人には見えていないのだが、彼は今非常に焦っていた。
――確かにここに置いてきたはずなのに。
思わず口をついて出た言葉を、ヒロは聞き逃さなかった。
「おい、今なんて言った」
ドダイトは硬直した。松明を持つ手が止まる。
「確かにここにって言ったか。心当たりはないんじゃなかったのか?」
「……そんな、聞き違いだろ」
「ふん、まあ聞き違いってことにしといてもいいけど、それならあそこに転がってるのは何だ」
ヒロが指差した先には、びしょ濡れのTシャツとズボンが砂埃をかぶっていた。
「あれは、どういうことだろうな」
「え……それって、スピナ今パンツ一丁なの?」
ミユの率直な感想が飛んできた。
「いや、確かにそうなんだけど。あいつは相当あわてて駆け出したんだ。
この辺はずっと一本道だったから、俺たちとぶつからなかったってことは向こうに行ったんだろ。それに」
ヒロは近くの岩を触ってみた。
「温泉の近くだとしてもこんなに熱を持ってることはない。下のほうに生えてるコケも焼け焦げた跡がある。
火が使えるのはアチャモだけだし、こんなに広範囲に焼けてるんだから、ここで何かバトルでもしたのかもしれない」
立て板に水とばかり一通り自分の考えを披露して見せた。ミユは目が点になっているし、ドダイトは石像のようにうつむいて動かない。
「それで、急いでパンツだけ穿いて相手を追っかけたのかな」
スピナのシャツとズボンを拾い上げてつぶやくように言った。
「あ、でもまだ解決してないんだけど。チコリータはどこ行ったのよ?」
「心配しなくてもいい。なかなか機転が利くみたいだね」
ミユは最初意味が分からなかったが、ヒロの視線の先を見てはっとした。小さな葉っぱが点々と列をなして、洞窟の奥に続いている。
「ということだから、松明を貸せ」
ヒロはドダイトからそれを奪い取った。
彼は抵抗もせずうつむいたままだ。負けを認めた、という形だが、ついにファインの名だけは口に出さなかった。
***
一方、実にみっともない姿でブーピッグを追いかけていたスピナは、ここで窮地に立たされていた。
何の前触れもなく振り向いたかと思えば、頭の黒真珠を青く光らせて技の構えを見せたのだ。
だがそこは長年のゲームで鍛えた動体視力の持ち主である。即座にバッグの中からモンスターボールを掴み取り、ワカシャモを呼び出した。
「いけえワカシャモッ! そんな豚野郎の念力に――」
あれ? 念力? ちょっと待てよ。ワカシャモは、炎に格闘……
気づいたときは遅かった。ただでさえ温泉につかって衰弱していたところにクリーンヒットしたのは、念力の上位互換技「サイコキネシス」である(スピナはそこまで判別できなかった)。
鋭い悲鳴を上げて吹き飛ばされたワカシャモを静かにボールに戻す。それから相手をもう一度よく見てみると……なんとブーピッグの背後から光が差し込んでいるではないか!
こんなところに出口があったのだろうか? スピナは思ったことをそのまま叫んだ。
「これが、これが死亡フラグか!」
しかし、それでもスピナは逃げようとしなかった。頭を落ち着かせて、改めてバッグの中を確認する。……不思議な飴が三つ、少し残っていた温泉の湯に浸かっていた。
最初はヒロのコイキングにあげようとも思っていた。だが、もう考える時間はない。例の黒真珠は、また青く光り始めている。
「ええい! 一か八かだ! 食わせてくれる!」
そう言って三つの飴を一気にチコリータの口に押し込んだ。
次の瞬間、ブーピッグがサイコキネシスを発射した。青い光はスピナとチコリータをとらえ、宙に浮かび上がらせようとする。
同時にチコリータの体が白く輝き始めた。スピナはわけのわからない叫び声をあげる。
視界が青と白に覆われていく。体が回転しているようだ。目を開けていられない――
一秒後、耳元で轟音が炸裂した。それを最後に、彼は意識を失った。
(#62 W 10.09.12)
彼は目を醒ました。穏やかな目醒めだった。暖かな春の風があたりに吹き渡り、太陽の光は体に沁みこむようだ。
良い日和である。彼はゆっくりと、頭が冴えるまで目を閉じて待った。近くには新葉の甘い匂いがする。
目を開けると、まず鋭い陽光が彼の目を射した。視界を確認すると、なるほど、洞窟の天井が半円状にぽっかりと開かれていて、そこから陽光が洩れて来ているのだった。
しかしその切り開かれ方というのは、まったく異様だった。何本もの大樹の根が洞窟の天井を勢いよく這って、まるで扉を開くように、それぞれの根が精一杯に天井を引き裂いていた。
ポケモンバトルの経験を積んだ彼には、これがポケモンの仕業であると知れた。見事なものである。
彼はおもむろに起き上がってあたりを見回してみると、予想に違わず、本来岩で覆われていたこの洞窟内部には草が生い茂っていて、若々しい大樹の姿も認められた。
草花はそうして降り注ぐ太陽の光で満たされている。その光景に彼は思わず感嘆の声をあげた。まだ頭が冴えきらない彼には、これが夢のように思えた。
ふと気づくと、彼は服を身に着けていた。初めはこれを不思議に思わなかったが、やがて肌に違和が生じてきた。僕はあのとき、裸だったのだが。
それから彼はブーピッグの念力にやられて気絶したという事実も思い出した。あれは狭い通路でのことだった。
誰が僕をここまで運んで来てくれたのだろう……? 間をおいて、彼の考えるところはやはり、自分は死んでしまったのだ、という局所に至った。
ここがあの世ではないと、誰が否定できようか。まして目前に立ちはだかるあの大樹は、あの世とこの世を分かつ境目だと思えた。
彼はため息をついた。あの流れはやはり死亡フラグだったのだ。
ああ、良い最終回でした。
「む……やっと起きたか」
スピナはやれやれ、といった具合で現実に呼び戻された。ヒロの声だ。
「まったく、僕も毎回こんなお決まりな独白を言わされて。いい加減こんな役回りからは卒業したいよね」
「意味が分かりませんなあ」
ヒロはこれを食べろ、と言って一個の黄色な果実を手渡した。果皮がうろこのように重なっている。
「オボンの実だ。美味くはないが、元気が出る」
このままかじれる? ああ、皮は剥かなくても平気だ。スピナはオボンの実にかぶりついた。果汁がほとばしる。
「ずいぶんと長く眠っていたな」
「うん、何だか2ヶ月ぐらい眠っていたような気がするよ」
「……実際そうなのだけど、正確には、お前はここで5日間も眠っていたよ」
へえ、5日ねえ。スピナは咀嚼することに集中していて、事の重大性が分かっていない。
「しかしこの光景には、さすがのお前でも驚くと思ったが」
「誰の仕業?」
スピナがオボンの実を食べ終え、意地汚くもその指を舐め始めたころにヒロは、ミユの仕業だ、と言った。
「チコリータがお前のところに行ったんじゃないか?
俺らが迷子になったチコリータを追っていたら、下着一枚で倒れているお前を見つけたんでな」
スピナが照れ隠しに頭を掻いていると、続けざまに、
「そして俺らが辿り着いたとき、お前はこの草原に倒れていた」
おや、とスピナは思った。僕はあの狭い通路で倒れたはずなのだが。
「話は最後まで聞け。それであたりを見回すと、驚くことに、そこには進化した"ベイリーフ"の姿があった。
あの大樹に、大きな樹洞があるよな? お前はまるで外敵から身を守られるようにして、あの樹洞の中にいたんだ」
間をおいて、ヒロは続ける。
「分かるか? ベイリーフはお前を守るために洞窟の岩や壁をなぎ倒し、ここにこの草原をつくったんだよ」
***
ミユは進化したチコリータの姿に驚くでもなく、洞窟の一部を草原に変えてしまったベイリーフの力を褒めるでもなく、ただ叱りつけた。
勝手に主人のもとから離れてはならない、と。
体中からスパイシーな芳香を放つ葉っぱポケモン――ベイリーフは、主人の怒りを真摯に受け止めた。
もっともベイリーフは、携帯電話を持って逃げるブーピッグの姿を見つけたから、それをひとりで追ったまでなのだが、そのことで弁解しようとしなかった。
ベイリーフはそこにミユの静かな涙を見たような気がしていた。
これをきっかけに、ミユたちのコンビネーションはやがて息が合うようになった。ミユは常に最善の行動をとった。
ベイリーフは指示を下されるまでもなく、適確な技を相手に繰り出していった。血は争えないもので、その姿には彼女の母、アミダを彷彿とさせるところがあった。
そうして修行は5日を数えた。修行が終わるまであと2日である。スピナは実にこの間、ずっと眠っていた。
息はあるから、死んではいないだろう。きっと今にも起きたはずだ……そう思わないではいられなかった。ミユは彼が目醒めたことを願って、拠点とする草原に帰路をついた。
これに加えて、ミユはドダイトのことも心配だった。彼は姿をくらまして、この5日間、顔を合わせていなかった。
(#63 I 10.11.19)
「ただいま戻りましたっと。あ、スピナが蘇生してる」
スピナが体を起こして声のしたほうを振り向くと、この大広間みたいなだだっ広い草原から枝分かれしている通路の一つからミユが現れた。
どうやら洞窟のどっかから木の実を取ってきたらしい。ミユの横にはベイリーフが居て、オレンの実やらモモンの実やらありふれた木の実を何個か持たされていた。
ヒロの言っていた通り、本当にチコリータから進化したらしい。
「はいどうも、生き返りましたスピナ君です。よろしくね」
「いえいえこちらこそ。はい、取ってきたモモンの実、いる?」
スピナは首を縦に振った。ミユの手から柔らかく弾力性がある実を受け取ると、いただきますも言わずに皮ごと貪りついた。
滴る果汁が服を濡らすが、元々十分汚れていたので気にしなかった。
「ところでさ、スピナ。なんで私のチコリータがベイリーフになったか知ってる?あ、あとアチャモもワカシャモになってるし。私達が見つけたときには二匹とも進化しちゃってたんだ」
そういわれてスピナは考え込んでみた。アチャモは勝手に不思議な飴を食って進化したのは覚えているのだが、はて、チコリータは何故だろうと。
残っている記憶のラスト部分を思い返してみる。ブーピッグを見つけて、豚のくせに後光が差し込んでて、サイコキネシスかけられて。
「記憶にございません」
「そっか。私もポケモンの進化するところ見たかったんだけどな」
ミユは、ふうと息を吐いた。目はどこか遠くを眺めているように見えた。
それとは正反対に草の上に尻をついて座っているヒロは、手に持っているコイキングのボールを瞬きもせずじっと見つめていた。
何を考えているかはなんとなく分かったので、何も言わないことにした。
「そういえば5日間も眠っていたらしいけど、その間何か変わったこととかあった? 物語的に何も無いってのはありえないんだけど」
それにはヒロが答えた。「それがな、ドダイトの野郎が姿をくらましやがったんだ」
「誰だよ」
「ああそうか、お前は会ったことが無いんだったな。お前と別の通路を行ったとき、俺達は一人の凄い怪しいドダイトって少年に出会ったんだが、
そいつが携帯電話が無いとか言い出してな、一緒に探していたところ倒れているお前を見つけて、以下省略」
「携帯電話?」
携帯電話と聞いて、スピナの頭にひらめくものがあった。進化の石を両手に持っていたあのブーピッグのことだ。
確かあいつは尻尾の先端部分で携帯電話を掴んでいた。目覚めたばかりのスピナには、5日前の出来事がまるでさっき起こったことのように鮮明に思い出せる。
スピナが、ブーピッグが携帯電話を持っていたことについて話すと、ヒロは目を細め、うっとおしい蚊が前を飛んでるときみたいに険しい顔になった。
「いったいなんなんだ、この洞窟は……」
「何が何が、どうかしたの」スピナが尋ねる。
「つまりだな」ヒロはそう言ってから姿勢を変えた。あぐらをかいて、右肘を右太腿の上に立てて、右手で頬を支えたポーズが、ヒロが座りながら何かを説明するお決まりのポーズだ。ヒロは続けた。
「ドダイトのものと思われる携帯電話をブーピッグが奪ったわけだ。スピナは自分のポケモンが主の携帯電話を奪って逃走すると思うか?」
「不思議な飴勝手に食いやがったワカシャモならやりかねない」
「…………。まあつまりこの洞窟に潜んでいるのはドダイトだけじゃない、ドダイトと敵対している何者かもいると考えるのが当たり前なんだ。」
なるほど、とミユは頷いた。「それで、ヒロはその変な敵について想いあたる節はあるの?」
「いや、全く想像がつかない。だが、この洞窟はいわば聖域みたいなもので一般人が易々と入れる場所じゃない。
そこに入れるとなると、ドダイトやらその第三者は、裏で暗躍している組織の一員なんじゃないかと俺は考えている」
二人は納得がいかない様子で、顔をしかめている。たぶんヒロ自身も自分の言っていることについて余り確信は持っていないだろう。
まず彼らの動機が全く不明だし、もし組織という単位が絡んでいるなら、規模が大きすぎる。
「とりあえずだ」ヒロはさっきより大きな声を出して二人の注目を集めた。
「何が起こるかわからない。これから先はどこに行くにも3人で行動するように心がけよう。決してはぐれないように。以上」
ヒロはあぐらを解いて、草花の上に足を伸ばした。
「あのお、僕5日ぶりにトイレ行きたいんですけど」
「あ、それは出来れば一人で行ってくれ」ヒロはそう言って寝転がった。
(#64 B 10.11.21)
一方、エンジュシティの寺院は大忙しだった。
「子供」が侵入したという知らせを聞いてから、急遽見張りのゴーストポケモンを増やしたのだが、彼らがもたらす情報は予想をはるかに超えたものであった。
洞窟内での激しい戦闘。
岩盤を突き破って出来た大樹と草原。
そして、いつの間にか消えていたあの「子供」――。
スリバチ山をよく知るゴーストたちでさえ混乱するような出来事の連続である。マツバもまた、連日千里眼をフル回転させているので急速にやつれていた。
報告を聞くたびに老師のもとを訪れるのだが、最初に発する言葉は決まっていた。
「申し訳ありません、老師」
「マツバよ、気持ちは分かるがそう自分ばかりを責めるな。あの若者たちが規格外だったのじゃ」
老師の返答が余計に心をえぐる。自分はそれを「見抜けなかった」のだから。確かに、最初に会った時のあの爆発するような個性は、規格外と言えなくもないが……それは別の話である。
「それに、他に大きな事件は起こっておらんのじゃろう? まずはあの三人が無事でなければならんからな」
「そのことですが、老師」
マツバは腰を落とし、ほとんどささやくような声で老師に言った。
「つい先ほど届いた報告ですが、スリバチ山南部に怪しい人影を見たと。それも山に近づくのではなく、南下していった……」
老師は目を見開いた。マツバは続ける。
「それに、もうお気づきかと思いますが、これに最近コガネシティやキキョウシティで不審者の目撃情報があることを重ね合わせると」
そこまで言うと、マツバはうなだれた。老師もため息をついて天を仰いだ。
「……こうなったら今からでも彼らを救い出して、チョウジタウンに避難させます。それからしばらくは私も――」
「それはならん。救い出すのは良いが、そのあとはあくまで彼らに任せねば」
「老師!」
「これは三人の冒険であろう。お主のではない」
「しかし、このままでは死が目の前に」
「そうやすやすと死ぬことはない。だから任せよと言うのじゃ」
老師の目が鋭く光った。視線ははるかスリバチ山に向いている。
「よいか、この際はっきりさせよう。彼らはわしらの手には負えぬ。救い出した後は見守るだけじゃ」
マツバも老師の目を見た。師の目の奥にはいろいろなものが渦巻いている。
しかし、三人の若者への信頼だけは、北極星のように動かず光を放っている。彼は静かに立ち上がると、スリバチ山に向かった。
しばらくして、老師も立ち上がり、窓の外に目をやった。
落葉し始めた並木の向こうにスズの塔がそびえ立ち、その先にはスリバチ山が霞んで見える。果たして瑞鳥ホウオウは、三人を守ってくれるだろうか。
その頃、42番道路の森の中でも、一つの計画が動き始めていた。
ドダイトがボロボロの姿で戻ってきたのは二日前のことだ。ファインは驚いた。ドダイトが任務に失敗するなど有り得なかった。
「予想外を言い訳にはしたくないが、とにかく……手に負えなかったよ」
屈辱がありありと顔ににじみ出る。彼から見れば、あの三人は未熟な少年少女であったのだが。
「失敗したばかりか、むしろ三人を大きく成長させてしまったと?」
ファインは焦るあまり思わず叱責する口調になってしまった。
「まったくその通りだ。だけど聞いてくれ。もっと重大なことが」
「コガネとキキョウの不審者の話なら知っている」
「え、それならどうしてずっとここに?」
「連絡が取れなくなるから七日間は動くなと言ったのはお前だろう? それにコガネとキキョウに行けなくなれば、あとはチョウジに行くしかない。
マツバももう感づいただろうから、七日を待たずに三人を下山させるだろう。だから……今からチョウジに向かおう」
最後のわずかな躊躇をドダイトは見逃さなかったが、ここでは追及しなかった。二人は車に乗り込み、森から姿を消した。
(#65 W 10.11.21)
拝殿の裏手には、スリバチ山へ通じる洞穴がある。洞穴の前には重厚な鉄板を立てかけていた。
3人をスリバチ山に閉じこめておくための鉄板だったが、今となっては無用の長物だ。マツバは研ぎ澄まされた霊験で、怒涛のごとくその鉄板を粉々にしていった。
鉄板は音を立てて崩れ落ち、後には黒い粉塵と砂煙が巻き上がるばかりだった。
煙が止んだころ、マツバはその光景に目を疑った。重厚な鉄板の後ろに隠されていたもの、洞穴の姿が、そこに無かったのだ。
代わりに、そこには温かみもない冷たい岩壁が立ちはだかっていた。マツバは言葉を失った。
ヒステリックな心持で、危げな足取りで岩壁に近づき、それを弱々しく拳で叩く。岩壁は無慈悲にも、乾いた音を立てた。
ポケモンの仕業だと、マツバは踏んだ。恐らく超能力、あるいは野生ポケモンの悪戯……前者の線が有力か。
マツバの頬に冷たい汗が伝う。どちらにしても、まったく性質(たち)が悪い。この入り口が使えないとなると、彼らと合流するのは不可能だ。
どれだけ頑張ろうと1日は時間を費やすだろう。
嘆いている暇はなかった。マツバはすっかり衰弱したその体で、なお霊力を駆使し、岩壁の削岩作業を始めた。
***
「ワカシャモ、行くよ」
スピナは5日間もボールの中に閉じこめられていたワカシャモを開放した。トイレに行くだけではあるが、このまま外に出さないのは可哀想だ。
「……シャモ」
スピナはびくりとした。ワカシャモの返事が小さいのだ。スピナはそこに、主人に対する敵対的態度を確かに感じとった。
見るとワカシャモは、ふてぶてしい態度で歩いてくる。
何故だ? とスピナは思った。5日も会えなかったから、僕から気持ちが離れてしまったのか。しかしそんなこと仕方がないじゃないか。
むしろそれより、僕のことを心配するべきではないのか? 確固とした信頼関係に、軋みが生じ始めたのをスピナは感じた。
鬱々とした気分でスピナは草原を出て、川の下流を探し始めた。それはワカシャモの灯りを借りずとも、すぐに見つけられた。
暗闇で潰れた上の方から、滾々と川が流れてくる。どうやらあの草原は洞窟の深部を位置しているらしい。スピナは手早くトイレを済ませ、ワカシャモをボールに戻す。
「おい、今音がしなかったか?」
不意に川の対岸から男の声がしたので、スピナは思わず悲鳴をあげそうになった。
素早く彼は岩陰に隠れて、息を整え、向こうの様子を伺う。暗闇でよく見えないが、人が動いている気配は知れた。
「気のせいさ」別の男の声だ。砂利を踏む足音がする。
「ううむ……しかしここは寒いな。早く俺はコガネのほうに加わりたいのだが」
「だが、可能性があるのはここなんだぜ?」
スピナはひとりの男の声には聴き覚えがあった。モーモー牧場でポケモンバトルを仕掛けてきた、あの黒服の声だ。
凶悪なヘルガーを使ってきた、なかなか手強い相手だったことを覚えている。スピナはボールを手に忍ばせた。
「リーダーの仇をとるつもりか」
「無論だ。あのふざけた子供たちもそうだが、何より国際警察の奴らに一杯食わせたい」
スピナは凄みのある声で、突然自分たちのことを言われたので、すっかり緊張してしまった。
そういえば、あのリーダーと呼ばれていた黒服はどうなったのだろう。アサギの方に逃げていったことは覚えているのだが。
川のせせらぎが響く。スピナは考えを切り替え、この男たちがここに何をしに来たのかを考えることにした。
やはり、ヒロの薬を狙っているのだろうか。だがそれは少し考えにくいな、とスピナは思った。
僕たちがこの洞窟に入ったのを彼らが知るわけはないし、何よりヒロ曰く聖域であるこの洞窟に入るためには、マツバという門番を打ち負かさなければならないのだ。
スピナは再び男たちの会話に耳を傾けた。すると、男たちはどこかで聴き覚えのある名前を口に出した。
「ああ。早く姿を見せやがれ、スイクンの野郎!」
(#66 I 10.11.21)
スイクン?
その言葉を聞いた瞬間、スピナの脳がフル回転する。
オーロラポケモン。北風とともに現れ、どんな汚い水をも浄化する……ああ、そういえばマツバがいた寺に祀ってあった三聖獣とかいうやつだ。
そしてスイクンといえば――
一生涯をスイクンに捧げたという男、ミナキの顔が思い浮かぶ。しかしここでスピナは首をひねった。
彼はもう何年も前から行方知れずなのだが。
父親のベカから聞いた話を思い出す。今からおよそ十年前、ハナダシティの北の岬にスイクンが現れたという情報を最後に、ミナキの消息は分からなくなっているという。
ちょうど今の自分くらいの歳のトレーナーが、タッチの差で先に捕まえてしまったという噂もあるらしい。
「ま、遠い場所の話だし、さすがに名もない少年が捕まえてしまったというのは大げさだなあ」
父がそう言ってケラケラ笑っていたのを覚えている。
いずれにしても、スイクンの目撃情報はこの十年間一件もないし、ミナキを見かけたという報告もない。
それでは今自分のそばでスイクンを探しているのは何者か? そもそも、あの黒い鎧の集団と、何か関係があるのだろうか?……
「あれ、声がしない」
いつの間にか声は遠のいていた。
何か重要な情報を聞き逃した気がして少し腹立たしくなったが、考えたところでどうにもならないと早々に思考を中断してヒロたちのもとへ戻ることにした。
「ねえ、ヒロ、木の実ある?」
「……さっき一人で取ってきた。そこのバッグに入ってるから」
ヒロはミユに背を向けたまま答えた。風が吹けばかき消されそうな声である。
「あ、ありがと」
――やっぱり、落ち込んでんのかな。
アチャモとチコリータは立派に進化し、自分はいまだに役立たずのコイキングだ。そのことを気にしているのだとミユは思っている。
さらに、不思議な飴を一個も見つけていないのは、運に見放されているからだ――ヒロは失敗を重ねるとよくこのようなことを口にした。今回もその類ではなかろうかと。
しかしそうではなかった。
二日前の真夜中、まだスピナが昏睡していた時である。なぜか目がさえて眠れず、無意識のうちにあの注射器を手に取っていた。
そして衝動を抑えきれず、ついにコイキングに赤い液体を、ほんの一滴ではあるが、注射した。
するとどうだろう、コイキングは小刻みに震えだしたかと思えば、ゆっくりと口を開けた。
その中で光の玉が少しずつ大きくなっていくのを見て、ヒロはあわててコイキングをボールに戻した。
まぎれもなく『破壊光線』――ギャラドスならまだしも、コイキングはどう間違っても覚えられるはずのない技だ。
のっぺりと赤い体の奥底に眠るギャラドスの力が呼び出されたというのか。
それならこの液体は進化を早める以上の恐ろしい効力を持つのではないか。あるいは、あれは単なる見間違いだったのか……。
結局、このことはまだ秘密にしてある。事が奇妙すぎるから、というよりはむしろ、あれ以来コイキングの様子は前と全く変わっていないからだ。
「破壊光線が見えた」と言ったって、信じるはずはない。それぐらい、コイキングはいつも通りだった。
その時、目の前の草むらが動いた。スピナがトイレから戻ってきたのだと思い、特に気にしなかった。
だが、そこにいたのはスピナではなかった。
(#67 W 10.11.23)
初めに"そいつ"の影に感づいたのは、ミユのベイリーフだ。
ベイリーフはそのころ大樹の根元で丸くなって、陽光を浴びながら寝息を立てていた。修行の疲れからだろうか、到底、動きそうもなかった。
そんなベイリーフがそいつの存在を察知できたのは、ベイリーフの中に抑えられていた激しい私怨によるものに他ならなかった。
ミユはそのとき、横になったベイリーフに体重を預けていた。ヒロのバッグの中に入っていた木の実は、どれも食べ飽きたものばかりで、食指が伸びなかった。
が、それでも腹は満たさねばならない……と思案していたときに、ベイリーフが勢い良く飛び起きたものだから、ミユの体は草原に叩きつけられた。
はずみで手から木の実が滑り落ちる。ベイリーフはわき目もふらず駆け出していった。
「ベイッ!」
ベイリーフは頭の葉っぱを回転させ、七色に輝く葉、"マジカルリーフ"を次々と形成していく。
それは草原の草木にまで及んだ。葉のひとつひとつが虹色に変わり、辺り一面は極彩色を示した。
鋭い風が吹きすさび、殺気で満ちる。この草原はベイリーフの舞台だ。
「な、なんだ!? この目に悪い色は!」
ヒロは草原の異変に気づく。あまりの草木の眩しさに目を傷めながら、ヒロは猛進するベイリーフの姿を捉えた。
そのベイリーフの視線の先――そこには怨敵、"ブーピッグ"の姿があった。
ブーピッグは草原が一瞬にしてこのような色に変わったことに、少なからず驚いているようだった。だが、それでもなお微笑を浮かべる余裕を見せた。ベイリーフの顔が殺気立つ。
「ベイリーフ、マジカルリーフ!」
急いでミユが命令を下し――草原が揺れた。
***
「……逃げられた」
信じられないことだった。マジカルリーフは必中技だ。あの大規模な攻撃を受けたなら、生きてはいまい。だが、ブーピッグの姿はどこにも見えなかった。
スピナが帰ってきていた。スピナはトイレに行くときに起こったことを、出来る限り事細かに説明した。
「スイクン。黒服。そして、あのブーピッグの存在」
夕食を食べ終えてから、ヒロは考え事をする際の、いつもの姿勢をとった。頬杖をつく。
「俺には、これらの関係がひとつに繋がっているように思える」
これには2人も同意した。「たぶん、ブーピッグはあの黒服たちの偵察要員ってところだと思う」
「じゃあ、僕らがここにいることは、あの温泉のときからもうバレてたってわけ?」
「だろうな。だが、ならなぜそうと知っても、あいつらは今まで攻めて来なかったのか……」
既に日は暮れていた。天井に開いた穴からは、もう月明かりが射している。
温泉に行こう、とスピナが提案した。お前は楽観的だなあ、とヒロたちはため息をつきながらも、準備を始めた。
(#68 I 10.11.23)
その頃、マツバは半日かかって入り口をふさいでいた岩盤に穴を開け、三人の探索を始めたところだった。
連日の疲れと霊力を大幅に消費したことが重なって憔悴しきっていたが、自分が倒れては話にならないと、気力だけで体を動かしていた。
だがその気力さえ尽き果ててしまいそうだった。見張りのゴーストたちが、全て倒されている。
最新鋭のシルフスコープでも見破られないはずの彼らが、いったいなぜ?
瀕死の状態になったゴーストポケモンは、力を失い、誰の目にも見えるようになる。
洞窟のそこら中に静かに横たわる姿は、岩と間違えて踏んづけてしまいそうだった。
一刻も早くエンジュの寺に戻したいが、時間が許さない。マツバは後ろめたさを感じながらも、なお前に進んだ。すべてはあの三人のために。
温泉は、変わらず元の場所にあった。天井の円形の穴からは、穏やかな月明かりが差し込んでいる。
そこからは五日前と同じ満天の星空が見えるはずだが、今の三人にそんな余裕はなかった。
そして、ベイリーフは威嚇するように目を吊り上げている。あのとき進化しなかったら間違いなくブーピッグのサイコキネシスに打ちのめされていたはずだ。
その件ではスピナに感謝さえしているのだ。そして、ワカシャモのそっけなさの原因も実はここにあった。
――僕を一番信頼してくれたはずのご主人が、格闘タイプの僕をブーピッグにけしかけ、あまつさえ気絶した僕をほったらかしてチコリータをかまった……。
もちろんそんなことが当のご主人にわかるはずはないが、とにかくポケモンだって立派に嫉妬するのだ。
彼の場合は、ベカの「厳選」の犠牲になった仲間たちを数多く見ているからなおさらである。
「なあ、一応温泉来たけどさ、どうすんだよ。まさか今から入るなんてことはないだろ」
「え」
スピナのたった一文字の反応に、予想通りの無計画さだった、とヒロは呆れる。
「いやまあヒロ先輩、世に言うアレだよ、『犯人は犯行現場に戻ってくる』って」
「だからお前は楽観的だって――」
その時ベイリーフが首を振り上げ、三人の前に躍り出た。何かを察知したらしい。
「あ、ほら! やっぱり来たんだよ! 俺すごくね!?」
スピナは目を輝かせて喜んだが、ヒロにはその推理が全くの的外れであるのがわかった。
隣でミユも目を輝かせていたからだった。
(#69 W 10.11.23)
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