前ページ<< 一番下に飛ぶ▼ >>次ページ
船着場爆弾事件からおよそ1週間が経った。調査続きで徹夜続きだったイコスは家に帰ってすぐ寝てしまい、起きたときには昼になっていた。
起床して最初にしたことは郵便受けを覗くことだった。当たり前のことだが、やはり朝刊が差し込まれていた。
取った朝刊をテーブルの上に投げると、慣れた手つきでブラックコーヒーを淹れて、ブランチとしてパンを焼いた。
イコスは新聞の一面や二面を見ることは基本しない。
そこに書かれている情報よりももっと詳細なのが、否が応にも新聞より早く同僚から口伝えで入ってくるからである。つまり時間の無駄なのだ。
いつものようにテレビ欄を見て、見ようと思っているドラマにペンでチェックを入れた。
それから新聞を後ろから捲って斜め読みしていると、”地域”というコーナーに面白そうな記事を見つけた。
『エンジュシティでスイクン目撃か?』という見出しであった。
「ウツギポケモン研究所が発表した情報によると、近頃エンジュシティ近辺でスイクンと思われるポケモンの目撃情報が多発している。これを受けて……」
イコスはコーヒーに口を付けた。「伝説のポケモンはダークライでこりごりだ」と一人で笑った。
(#70 B 10.11.28)
イッシュ地方ヒウンシティ――イコスの勤める国際警察署はここにあった。もっとも国際警察という組織構造は重層的に絡み合っている。
全国に拠点を構え、どこが中枢部であるのか正確に規定されていない。
国際警察でも地位の高い役割を占めれば、この不確かな組織の全貌を明らかに把握できるのだろうが、イコスにそういった野心はひとかけらも無かった。
イコスは通勤途中にヒウンシティの海を眺めるのを慣わしとしている。アサギに劣らず、良い海であると思う。
ラッシュアワーのストリートを駆け抜け、イコスは警察署に入った。今日も黒服と顔を合わせることになる。
「よう、黒服。元気にしていたか」
イコスは取調室に入る。黒服はいつも通り無愛想な顔をしていた。
「他の警察たちは、ずいぶん俺に構わなくなった」
「同僚たちは何も話さないお前に見切りを付けて、別な情報を探しに行ったよ。ここは皆そうなんだ」
やや間があって、部下が遅れて入ってきた。席に腰をおろし、ノートパソコンを立ち上げる。書記を務めるのだ。
「新聞、読んだよ。スイクンがジョウトの方で出たって」
「ああ、俺もここに来る前に読んだ」
黒服はそうか、と言って、それっきり押し黙ってしまった。何かあるんだな、とイコスは察した。
***
ベイリーフが歩み寄っていくその先。白い湯煙でよく見えないが、そこに球状の水色をした者がいるのが分かった。
ヒロとミユはその色感で、そいつが何者であるか知れた。やはりスピナだけが置き去りという形で、ぼんやりしている。
「ルリルリッ!」
温泉を囲う岩の上に腰をかけている1匹のポケモンがいた。みずうさぎポケモン、マリルリである。
その聴覚は他の水ポケモンに類を見ないほど優れており、潜水するときは長い耳を上手に巻いて泳ぐ。腹部の白い水玉模様は水中でのカモフラージュだ。
「あっ、これ雑巾ポケモンの進化系やん――」
すかさずミユがスピナに肘鉄砲を食わせた。スピナは死んだ。
「スリバチ山に生息しているとは聞いていたが、見るのは今日が初めてだな」
「それだけ珍しいポケモンってことだよ!」
ミユの心は高鳴った。それは初めてチコリータに会ったときの、あの感動に少し似ていた。
ベイリーフはマリルリの足元まで近づいた。
攻撃するのかと思いきや、ベイリーフは唐突にも頭の葉っぱでマリルリの体を撫で始めた。その振る舞いには親しみがこめられている。
「なに、知り合いなの?」
スピナは驚いて言う。何だか2匹は長い時間を経てやっと巡り合ったように、懐かしみあっている。
「えっと……? 確か昔、母さんがマリルリを持っていたような気がするけど……?」
とにかく、善は急げである。ミユはついぞ使わなかった空のモンスターボールを手にとった。
(#71 I 10.11.28)
「おおっと、そうはいかないぜえお嬢ちゃん」
「何急に、気持ち悪いんだけど」
渾身の決め台詞を一瞬で否定されてめげそうになったがスピナはどうにか踏みとどまった。
「よっ要するにだ、あの物音に最初に気付いたのはこの僕だ。したがって世界の普遍的法則である早い者勝ちの原理によってこのマリルリは――」
一息でどこまで言うのだろうとミユが感心していると鈍い音が二回聞こえてスピナが彼女の視界から消えた。ワカシャモの「二度蹴り」である。
「な、なんなんだワカシャモよ! そりゃあ確かに水ポケモンは相性が悪いかもしれないが」
今度は「黙れ」とばかりにベイリーフのつるのムチが飛んできた。言葉にならない悲鳴を上げて、スピナは再び死んだ。
「相変わらずだね。でもそればかりは通らないよ。そもそも最初に気付いたのは、ベイリーフだったからね」
とどめにヒロが的確な指摘をぶつけた――かと思いきや、それは「ヒロが言おうとしたことをそっくりそのまま」洞窟の奥の誰かが言ったのである。
心が見透かされている感じ。聞き慣れた声。ミユの目の輝き。声の主は言うまでもなく、マツバであった。
「どうにかたどり着けたよ。元気そうでよかった……さあ、早くここを出てチョウジタウンへ行こう」
最初に会った時と同じように、細かい説明はいらなかった。しかしそれは、マツバが心眼を使ったからではなく、三人も事情をよく理解していたからだった。
そしてマリルリは、ミユにすっかり懐いていたので、わざわざボールで捕まえる必要もなかった。
42番道路の東側、チョウジタウンに続く道は、山を切り開いてできたものであるため狭く険しいが、
マツバが連れてきたムウマージの「フラッシュ」によって照らされていたため迷ったりケガをしたりする心配はなかった。
「チョウジは忍者の町だ。昔はロケット団のアジトが作られたりして物騒だったけど、今は至って穏やかな山奥の町、ってところかな」
マツバは声もまともに出せないほど疲れ切っていたが、それでも三人を先導して前を歩き続けた。
「本当はもっといろいろ援助してあげたいんだけど、君たちの為を考えれば……」
「ありがとうございます。その心遣いだけで嬉しいです」
ヒロは丁寧に返した。彼としても、これ以上マツバに苦労をさせるわけにはいかないのだ。
それに、元をたどれば、原因は自分が持つこの「薬」なのだ。マツバには修行場所を貸してもらったに過ぎない。
もっとも、半ば強引に頼み込んだ自分自身が、一番成長できていないのだが……。
夜の山道を歩いてチョウジタウンにたどり着いたのはもう真夜中だった。辺りを照らすのはムウマージのフラッシュと、ポケモンセンターの灯りと、満天の星空だけだ。
「じゃあ、名残惜しいけど、ここでお別れだ。君たちは絶対に強くなれる。老師がおっしゃっていた通りだ」
マツバはそれだけ言うと、ムウマージを従えて来た道を引き返していった。彼の姿は、すぐに闇に飲み込まれて消えてしまった。
――そういえば、「リアジュウ」という呪文の意味は、結局わからずじまいだったなあ。
一方、マツバと別れた三人は、黙りこくったままポケモンセンターに向かった。
スピナはもう「リアジュウシネ」なんて言わないし、ミユも嬌声を上げたりはしない。三人は再び「孤独」になった。
マツバを恨む気持ちは少しもない。もとより覚悟はしていたつもりだ。それでも、実際に闇の中に放り出されてみると、この上なく心細かった。
いま三人を導くのは、町のたった一つの灯りだけである。そして……ポケモンセンターの中には、見知った顔の「彼」がいた。
ヒロはもう偶然だの運命だのは信じなかった。彼も間違いなくこの「薬」に関わっている――と。
(#72 W 10.11.28)
「やあ、どうもこんばんは。久しぶりだ。よく来たね」
ファインはポケモンセンターの敷居を跨いでくる3人の姿を見て、特に驚いた様子を見せなかった。
むしろ落ち着きを払っていた。ただ、3人のあまりに汚れた服装を見て眉をひそめたばかりだ。
先にシャワールームに行ったほうが良いんじゃないか、と笑う余裕さえあった。
ヒロはファインの背後にドダイトの姿が見えないことを訝しんだ。個人的に、あの小僧は間違いなくファイン側の人間だと思っていたのだが。
「君たちが来ることは分かっていた。だから驚かなかった」
「なんで分かっていたんでしょう」
「襟の後ろを見てごらん」
――ヒロは見なかった。むしろがっかりした。襟の裏側には、ヒロの居場所を知らせる小型レーダーが付けられていたのだ。
ヒロはファインのこういうやり方を卑劣で汚くて女々しくて、どこまでも見下げ果てた奴だと思った。ミユとスピナもこれには辟易した。
「もちらん情報を分析して、君たちの行動を予測することはできた。でも、僕にはヒロ君の監視責任があるから」
そう言ってファインはヒロのもとに歩み寄り、襟の裏側から何かを抜き取った。見たくもなかった。
「……ファインさんに聞きたいことがあります」ヒロは怒りを抑えこんで、声を絞る。
「大方、分かっている。薬のことだろう」
ファインは白衣のポケットから、親指大の小さな瓶を取り出した。コルクの栓がされており、赤い液体で満ちている。
「説明しよう。これは"BsE"。通称、暴走剤だ」
ファインは小瓶を揺らす。まるで血のような赤い液体は瓶の中で何度も波打った。
ファインの説明を要約すると、次のようになる。
BsE――正式名称を「Backspace Enter」。今から3年前に、ファインの組織内で発明された薬品である。
世間には全く知られていないこの薬品だが、裏社会では爆発的な広がりを見せ、反響を呼んだ。そして日夜、この薬品は闇市場にて高額で取引されている。
いわゆるこの暴走剤、これはポケモンに注射するものである。その名の通り、これをポケモンに注射することによって、対象は常軌を逸した能力を獲得する。
だが代償として理性が崩壊し、暴力的な性格に様変わりする。効果は10〜20分程度。
1つ事例を挙げるならば、ある巨大勢力同士の抗争でこれが用いられ、劣勢にあった一方が大逆転勝利を収めたということがあった。
副作用は一切無い、というのが謳い文句である。だが、実際には副作用があった。
というのは、これを使用することで将来的に、ポケモンの体内にある核(ファインはこれをサーバーと呼んだ)つまり心臓に大きな負荷がかかる、ということだった。
ファインたちの組織はこれを無視し続けていたが、あるときこの危険性を強く懸念し始める研究者たちが組織内で現れ、ついに暴走剤は作られなくなった。
「……分かったかな?」
ファインは真剣だった。ミユは何とか話についてきているという具合で、スピナにいたっては居眠りをかいていた。
「ついでに、僕たちの組織の名を君たちに明かそう。僕たちの組織の名を"POC"。決して黒服側の人間ではない」
ファインは淡々と語る。その僕たちというのにドダイト少年は含まれているのか、と訊くとファインはそうだと答えた。
「ドダイトも立派なPOCのメンバーのひとりだ。今は席を外しているけど……」
ミユは意外そうな顔をして聞いていた。その隣にいるマリルリはうとうとと寝息を立てている。
ヒロは思い出したように、かばんから例の注射器を取り出した。
「じゃあ、これもそのBsEとかいうものですか?」
「いや……それは少し違う。そいつは僕たちの理論をさらに飛躍させた暴走剤"F5"だ」
暴走剤F5。その効果は未知数だとファインは言った。ただ、BsEより圧倒的に強力なものであるのは間違いない。
それは一昨日、コイキングにこれを注射したときの異変を見れば明らかだった。
「暴走剤F5は世界に2つとないとされている。だが、僕たちはもう、それを狙っていない。僕たちに残されているのはそれを最後まで監視する義務だ」
ファインは他に訊きたい事はないか、と言った。
ヒロはこの薬品が『世界に2つとない』という点がどうも腑に落ちなかった。熱心に頭の中で考えを巡らせる。
そんな超危険物をなぜ父が持っていた? そしてなぜ俺に託した?
なにより、俺の父は何者なのだ――?
(#73 I 10.11.29)
「とにかく今日はもう遅い。ゆっくり休むといい。明日は明日の風が吹く、だよ」
ファインはそう言うと席を立ち、センターの奥、宿泊棟に引っ込んでしまった。
基本的にポケモンセンターの宿泊棟は人にもポケモンにも無償で解放されている。いつでも誰でも好きな時に滞在できるのだ。
「ねえヒロ、もう寝ようよ。いろいろ考えることはあるだろうけどさ、こんな遅くまで起きてるのはまずいんじゃない」
ミユも大きなあくびをして立ち上がり、熟睡中のスピナを引きずって宿泊棟に入っていった。
だが、今のヒロは指一本動かすことさえ億劫だった。エネルギーが全て脳に集まっている感じだ。
それでも、ずっとホールに居るわけにもいかないのでぎこちなく立ち上がって、何度も壁にぶつかりそうになりながら歩いた。
どうやってベッドに潜り込んだかさえ覚えていない。頭の中であの赤い薬が、血液より激しく、音を立てて巡っている。
ファインの言うことを信じるとすれば、あれは世界に二つとない暴走剤「F5」で、父はなぜかそれを持っており、旅立つ前に僕に渡した。
あの時父は何と言ったか?
「ドーピングというやつだ。俗にタウリンとか、インドメタシンとか言われるあれだな。
もし何だったらそれをコイキングに打ってやるといい。強さが変わるか分からんが、副作用はないから安心しろ」
……そう、副作用はないと言った。父が勘違いしているとすればそれまでなのだが、こういう細かな間違いほど気にする彼が、そんなミスを犯すだろうか?
偶然手に入れたとも考えにくいし、このような劇薬なら使い方も当然熟知したうえで所持していたはず。
父は文系人間だが、理科系のことにも少なからず興味はあったからだ。
科学の話題が出ると、少年のように目を輝かせていた、その顔が暗い天井にかすかに見えた。
それなら例えば副作用を起こさない仕組みを導入したとか――いや、さすがにそれは無い。ヒロは苦笑する。
いくらなんでも本物の薬剤師のようなことはできるはずがない。
もう、仕方ないから、様子を見るしかない。いろいろ考えた挙句、結局最初の地点に戻ってくるのはヒロにはよくあることだった。
そんな時彼はいつも時間を無駄にしたと自嘲する。あの時コイキングの口の中に見た光……それだけを信じることにした。彼はようやく眠りについた。
翌朝、ヒロは案の定寝不足だった。スピナはその横で「いやあよく寝た、実によく寝た」とお決まりの嫌味をやって見せた。そこにミユが飛びかかって黙らせるのもお決まりだった。
「で、結局何の話だったの? 最後の記憶が確か狂牛病で」
「それはBSE違いだ。お前のために取ったメモじゃなかったんだけどな」
そのときのヒロの顔は不快感そのものだった。どうせ理解できるわけはないと思っていたからだ。
しかし、メモをさっさと読み終えたスピナの口からは、意外な言葉が飛び出してきた。
「なるほどわからん。でもさ、この、なんていうの、超ドーピング? この間最新型の『E-Hit』が出たばかりじゃないの?」
ヒロは目を見開いた。眠気が全部吹っ飛んだ。
EnterHit――通称E-Hit――とは、BsEよりもF5よりもはるかに強いドーピング薬で、その効力はF5の四倍とも五倍とも言われる。
およそ一か月前、ヤマブキ大学の研究チームが製造に成功したと全世界で広く報道された。
F5の強化版なのだから、効き目が強いのはもちろん副作用も激しいはずだ。
ファインに言わせれば「サーバー」があっという間に「ダウン」してしまうという感じだ。ところが驚いたことに、このE-Hitは副作用が全く無いというのだ。
もちろんこれはまだ実験段階で、事の真偽も定かとは言えないが、とにかく世界中の科学ファンを熱狂させた。そういえば、ヒロの父も新聞を読んで狂喜していた……?
「まあ僕の記憶にはあんまり頼らないほうがいいけどね! でもなんでそれがすぐ『F5』だってわかったのかね?
あの最初に出した瓶詰めだって大した違いはなかったでしょ?」
「そりゃ、スピナが見たってわかんないだろうけど、あの人にはわかるんだって、多分」
「えーなんか胡散臭いなー」
「あんたよりマシ」
「ぐええ」
二人のこれまたいつも通りのやり取りの一方で、ヒロの頭は朝っぱらから高速回転していた。
ファインの深遠なたくらみか、もしや父も関わっているのか、あるいはもっと予想外な展開なのか、あの黒服は何者だったか、奴らも確か、薬を狙っていて――
「もう! 何考えてんのか知らないけど、そのうち爆発するよ!」
ミユの声が耳元で響いた。はっと我に返ると、二人はすでに朝食を済ませていた。ヒロはどうしようもなく赤面した。
(#74 W 10.11.30)
「ところで、そのF5はとても赤い液体だな。ジュースのようだ。私は人間がそれを飲むとどうなるのか非常に興味がある。どれ、貸してみなさい」
そう言ってスピナはヒロのバッグをあさり始めた。
(#75 B 10.12.10)
「寝言は寝てる時に言えっ」
ミユがスピナの首根っこをつかんで後ろに思いっきり放り投げた。11歳の少女のどこにこんな力が備わっているのだろう。
スピナはきれいに清掃されたポケモンセンターのロビーを後ろ向きで滑って行ったが、カウンターに背中から衝突する前に静止した。振り返ると、ファインが微笑んでいた。
「朝から元気なのは良いことだよ」
「あ、はい。おはようございます」
四人は丸いテーブルを囲んで座った。ヒロは遅い朝食を食べている。
「それで、チョウジタウンでのプランはあるのかい?」
そういえばまだ何も決めてなかった。ミユとスピナが顔を見合わせる。
「チョウジは忍者の町とも言われている。それぐらい山奥にあって、変化を拒んできた小さな町だ。ざっくり言ってしまえば、仕事になるようなものは無いよね」
ファインは二人の様子を気にかけず話す。
「まあ、なんにせよ、しばらく隠れるにはいい場所だよ。忍者の町、だしね」
自然な口調だったが、隠れる、という言葉が少しヒロの耳に残った。例の黒服が三人を狙っているのを知っているのか?
もちろんファインはすべて知っていたし、マツバを動かした張本人も彼だが、そのことは一切口に出さなかった。
そして彼は、嘘をつくにはあまりにも爽やかすぎた。はたから見れば穏やかな好青年である。11、2歳の少年では、それを見抜くだけの経験が無かった。
「ちょっとヒロ先輩、食べないんなら俺が貰っちゃいますよ」
スピナが横からささやいてきた。やらないよ、とはねのけて再び残りを食べ始めた。
ファインは静かにその様子を見ていた。やはり、あの微笑を浮かべている。人に有無を言わせない、無言の力を持った微笑である。
「やっぱり、怒りの湖で訓練するのが妥当だろうね。これから暖かくなるから釣り人も増えるしね。炎タイプには厳しいかもしれないけど」
そう言ってちらりとスピナに目をやった。
「おっとファインさん、自分のワカシャモは最強なんだから心配は要らないっすよ。船で闘った時はコテンパンにされちゃったけどね!」
「あはは、そういえばそんなこともあったね。確かに今闘ったらわからないかもしれない……あいにく、ポケモンを持っていないから、今すぐというわけにはいかないけど」
「え、持ってないんですか?」
旅をするトレーナーがポケモンを持たないということがあるのだろうか。ミユは率直な質問を投げかけた。
「ああ、変かもしれないね。でも僕はむしろ研究が本業だし、ポケモンだってもちろん育ててるけど、なんというか、研究が肌に合うっていうのかな」
ファインは少し照れたような笑みを見せながら答えた。スピナの脳内では負け惜しみの逃げ口上に曲解変換されていたが。
「じゃあ……ここから北、怒りの湖に行けば、何かあるってこと……なんですね」
ヒロはようやく朝食を食べ終わったところだった。まっすぐ見据えた視線の先にあるファインは、爽やかでいて深い闇を含んでいるようだった。
「ああ、きっと何かがあるさ。君たちにはきっと何かが起こるよ」
「災難続きだもんなあ」
スピナはそう言って一人笑ったが、ヒロは違った。
――怒りの湖と言えば、伝説の赤いギャラドス。そこにコイキングの活路があるに違いなかった。ファインの目がそう言っているのを、ヒロは確信していた。
(#76 W 10.12.11)
ジョウト地方最大の湖沼、怒りの湖。
ここの湖水は、霊峰スリバチ山から流れ出る山水を水源としている。
その険しい山川を登り切ったコイキングは赤い身体をしたギャラドスに進化を遂げる、という神話は今でも伝えられている。
この伝説は、コイキングがチョウジタウンの人々に親しまれていた証拠と言えよう。
過去に一度、怒りの湖にて本当に赤い身体をしたギャラドスが姿を見せたことがあった。
この事件は各メディアに大きく取り上げられたが、結局のところ、なぜギャラドスが赤い身体をしていたのか、原因は不明のままだった。
今ではすっかり語られることもなくなったが、湖の多いシンオウ地方では、この事件は一大センセーションを巻き起こしたそうである。
ヒロたちは旅路の途中、露店を見つけた。ござを敷いた上に品物が並べられ、店主が座っている。
店主の言うことには、怒りの湖に行くなら、あそこは年がら年中雨が降っているから、傘を買うと良い、
それにチョウジタウンに来たからにはいかりのまんじゅうを食べて行け、ということだった。
笑えるほどに商魂丸出しの男である。だがヒロたちは金に余裕があったから、それらを買うことにした。
「ところで」
ミユは饅頭を食べながら話す。木の実ばかり食べていたから、この素朴な味でも十分足りる。
「本当にあいつを信用していいの?」
「あいつというと、さっきの男か」
「あの白衣の男に決まってるじゃん!」
ミユは名前を口に出すことさえ不快なようである。ヒロは鬱蒼とした杉林に目を向けた。
「今は信用するしかないだろう。他に動きようもない」
ミユはやれやれ、といった具合でマリルリに饅頭をやった。怒りの湖へ行く道は急な坂になっていて、どうやら湖は丘の頂上にあるらしかった。
3人の隘路を行く足取りは、次第に重たくなってくる。
「スピナ。あいつ、ポケモン持ってないらしいし、次会ったらぶっ飛ばそうよ」
ヒロの背後から呪詛の言葉が聞こえてくる。
***
「おい、ドダイト。聞こえるか?」
携帯電話の向こうからはノイズのように激しい雨音が響く。ドダイトは今、怒りの湖にいた。
「定時連絡の時刻から大幅に遅れているが」
『すまん……あって……』
――全く聞こえない。
「……お前はスリバチ山でもいらぬ失態をおかしたり、節操がなさすぎる。しっかりしろ」
ファインは鞄に荷物を詰め込んだ。ポケモンセンターの転送マシンを立ち上げて、相棒のポケモンを連れ出す。
『待って……ファ……どこ……?』
「僕はマツバのところに行ってくる。ちゃんと説明しなければならないからな」
あの3人のことはひとまずお前に任せる、定時連絡を怠るなよ。ファインは大声でそう言い残して電話を切った。
不安が募るが、問題はないはずだ。ファインは送られてきたモンスターボールを手にとって、チョウジタウンを後にした。
(#77 I 10.12.12)
険しい道を登りきって怒りの湖を目の前にしたときには、もう前も見えないほどのどしゃ降りだった。
それも「湖に着いた瞬間に」突然の大雨に襲われるのである。
さらに不思議なことに、毎週水曜日だけは雨が上がり、湖の水位が下がるとともに、素晴らしい景観を目にすることができるというのだ。
昔話では、これは湖の主である赤いギャラドスが悪さをした人間を懲らしめるために大雨を降らしたところ、人間が泣いて許しを乞うたので、
七日に一回だけ雨を降らすのをやめて晴れ間を見せるのだ、と語られている。
もちろん実際には、特殊な地形のために雲がたまりやすく、ためによく大雨が降るのである。水曜日だけ雨が上がる理由は未だに科学的には解明されていないが……。
いずれにせよ、今日は火曜日である。雨に煙る湖の周りには、三人を除いて人っ子一人いなかった。
「うおおおこれはやばいって! 噂には聞いてたけどこれは聞いてないぞ!」
スピナはなんだかんだ言って興奮している。雨降りでテンションが上がるなんてほかの二人には信じられなかった。特にミユは、服が濡れるのを極度に嫌った。
「ああもう! どうせなら合羽でも売ってくれればよかったのに! こんなおんぼろ傘じゃあっても意味ないじゃない!」
ファインへの不満も相まって11歳ながらにヒステリックな叫び声をあげる。
やがて、やり場のない怒りはヒロにも向けられた。
「ちょっと、ヒロも何突っ立ってんの? そこに小屋があるじゃん! あんたも雨が好きなわけ?」
湖のほとりには、確かに小屋が一軒建っていた。だがそれは雨宿りのためのものではなく、世界一大きいコイキングを釣る夢に燃える釣り名人の家だった。
もちろん雨宿りもできるのだが、そうなると彼の話を一時間は聞かねばならなかった。
「雨は大嫌いだけど、もうしばらくここにいる。二人だけでも入りなよ」
「えー、俺は雨大好きだよ。なんか解放された感じがするよね」
スピナのトンチンカンな答えにミユは歯ぎしりをしたが、結局彼女も留まった。さすがに一人で入っていく勇気は無かった。
「本当にここに来るのか」
「大丈夫だ、心配するな。ファインさんは間違わない」
「しかしファインが間違わなくとも――」
「わかっている、その先は言うな」
ドダイトは眉をひそめた。本来手足であるはずの彼らに痛いところを突かれたからだ。
真っ黒なレインコートを着た彼は、もう一度双眼鏡を向けた。雨でよく見えないが、確かにその方向に小さな人影があった。
「よし、あれで間違いない。行け」
双眼鏡を構えたままドダイトは後ろにいた二人に指示を下した。二人は返事もせず、音も立てずにその場を去り、人影の見えた湖の入り口に向かった。
そして、一分と経たないうちにそれぞれモンスターボールを取り出し、放り投げた。その頃にはすでに、小さな人影は十分視認できるまでになっていた。
「やっぱり来たよ」
ヒロがつぶやいた。他の二人が驚いて辺りを見渡そうとしたその時、雨を切り裂くように二つの物体が現れた。
同時に、宙に浮いた球体から赤い光が溢れ出す。二体のポケモンは、キングドラとカブトプス。共に「すいすい」の特性を持ち、雨の下では素早さが二倍になる。
「えっ、ちょっと、まさか――」
二つの物体は、モーモー牧場で死闘を繰り広げたのと同じ真っ黒な鎧を着た二人組だった。
「げえっ、冗談じゃないよ。僕のワカシャモが活躍できない時を狙ってきやがったんだな!」
二人組はそれには一切応えず、ポケモンに指示を下した。二匹は驚くべきスピードでヒロに迫ってくる。
「ねえ! ヒロ! まさか避けないつもりじゃないよね? ベイリーフ!」
ミユはあわててベイリーフを繰り出す。命令するまでもなく状況を瞬時に判断し、あらんかぎりのマジカルリーフを撃ち込んだ。
二匹はヒロの目前で体勢を崩し、はね飛ばされたが、すぐに持ち直し、ターゲットの方を向いた。
喧騒の中、ヒロは冷静だった。手段はただ一つ。あの薬を、ここでコイキングに打つ。それが最善かどうかはわからないが、それしかなかった。もとより、それを覚悟でここに来た。
静かにモンスターボールを取り出す。キングドラとカブトプスが向かってくる。その二匹を見据えたまま、カバンの中の注射器に手を触れ、取り出そうとする――
「にほんばれ」
突然上空から声がした。声と同時に雨足は急激に弱まり、湖に重くのしかかっていた雲は割れ、陽光が差し込んだ。
続いて、日の光を受けて速度を失った二匹の水ポケモンの前に立ちはだかるように、青い竜のような生物が轟音を立てて着地した。全国図鑑373番、「ボーマンダ」と呼ばれるポケモンだった。
「知らせを聞いて飛んできたけど、まさにギリギリセーフみたいだな。ちなみにこいつは、子供の頃からの相棒だ」
最後の言葉は、後ろのヒロに向けられたものだった。竜に乗ってコートをなびかせているのは、国際警察のイコスであった。
(#78 W 10.12.13)
……そうは言ってみたものの、この3人がちょうどこんな辺鄙な地に居合わせていたことをイコスは知らなかった(恐らく誰も知らなかっただろう)。
上空から怒りの湖の様子を伺っていると、偶然にも彼らが現れ、そしてまるでそれに呼応するかのように黒服たちも姿を見せたのだ。
この場合、イコスは子供たちに対する体面を守るために、このような嘘をついたのである。
自分の見せかけの尊厳を守ることにかけては、どこまでも周到な男だった。
こう述べたように、イコスは子供たちを助けるためにここへ来たのではない。目的は他にあった。
「よお、黒服! お前たちの仲間から、興味深いこと聞かせてもらったぜ!」
精悍な顔つきをしたボーマンダの巨躯が、ふわりと宙に浮かび――鉄のような尻尾が振り上げられる。
「ドラゴンテール!」
それは大気の震動だった。その尻尾が地面に叩きつけられると、ボーマンダの周囲に幾つもの竜巻が生じた。
黒服のポケモンたちはその爆風に吹き飛ばされる。竜巻は湖の水を巻き上げ、飛沫を散らした。それはまるでギャラドスが天に昇る姿のようだった。
「貴様……国際警察のイコスか」
黒服は投げ飛ばされ、地面に叩けつけられたキングドラとカブトプスのことなど見向きもしなかった。イコスは頷いた。
そこからのイコスの動きは、国際警察としての腕をうかがわせた。イコスは無数に巻き起こる竜巻の群れをかいくぐり、駆け抜け、黒服たちの前に躍り出た。
イコスは相手の抵抗を鮮やかに捌ききり、2人を杉の木に押し倒して、その首を絞めつけた。
磨きぬかれた技である。黒服たちはあっという間に身動きが取れなくなる。
ヒロたちはその強さに目を奪われていたが、竜巻がおさまると、急いで彼らのもとへ駆け寄って行く。
「さて……俺は、ここにお前らの組織の"幹部"がいるという情報を聞いてやって来たんだが」
今度はイコスが黒服たちに尋ねた。2人は黙っている。
「お前ら、"ドーピング取締法"を知っているか?」
黒服たちはその言葉にビクリと身を震わせた――無論、ヒロもその1人だった。
「間もなく全国のポケモン協会から発令される条例のひとつだ。
世間一般に暴走剤と呼ばれるBsE、F5、E-Hitの3つの使用に関して、全国の警察が法に則って取締りを行う」
「な、なんだそれは!? いったい何のために?」
「これ以上のポケモンバトルの秩序の崩壊と、経済の混乱を防ぐためだ」
ヒロは手に取った注射器をそっと、鞄の奥底へしまった。今この場に出したら、あまりに不味すぎる。
「協会は暴走剤が出回り始めた3年前から、その危険性は確認していた。だが、条例の実行には至らなかった。
なぜなら、この薬の出処がつかめなかったからだ。条例を出すには、その見せしめとなる人間が必要だった」
淡々とイコスは語る。黒服と3人はただ呆然としている。ヒロは頭がぐらぐらとして何も考えられない。
「そういうわけで、お前ら含めここにいるらしい"幹部"とやらに、その見せしめ1号となってもらう」
イコスが懐から手錠を2つ取り出そうとすると、黒服たちは最後の抵抗とばかりに、叫んだ。
「なるほど! そういうことなら、この薬は今のうちに使ってちまうしかねえな」
黒服たちはその隙を見はからって、暴走剤BsEをキングドラとカブトプスに注射した――
***
怒りの湖の天候は一変した。
先ほどまで湖には焼けつくような陽射しが降り注いでいたが、黒服のキングドラとカブトプスに暴走剤が打たれてからは、バケツを引っ繰り返したような暴風雨となった。
「俺らのリーダーは、組織に必要な人間だ。お前の手には渡せねえ」
黒服は理性を失い、怒り狂うキングドラの頭を撫でた。
(#79 I 10.12.18)
「窮鼠がライオンになりやがった!」
イコスの表情には明らかに憤怒の色が現れていた。アサギシティに続き、二度も犯人を逃すわけにはいかなかった。
「ボーマンダ! もう一発ドラゴンテール――」
叫ぶように指示の声が飛んだが、それを聞くや否やキングドラが凶暴な目をボーマンダに向け、間髪を入れず大砲のような口に青いものが渦巻いて一気に射出された。
『竜の波動』――ボーマンダは身をひるがえしてかわそうとしたが遅かった。
それは左半身をえぐるように駆け抜けていき、焼け焦げたような跡を残した。ボーマンダはバランスを崩し、唸り声を上げてイコス共々湖に転落してしまった。
このキングドラはライオンではない。ライオンには百獣の王としての尊厳がある。しかし、暴走剤を打たれたそいつは、獲物に襲い掛かるだけの、狂ったハイエナだった。
キングドラはしばらく飛び回り、やがて目標を定めて猛進してきた。その目の先には――
「えっ? 俺!?」
スピナは戦慄した。なぜよりによって自分が選ばれるのか。ふざけんなこいつ、おい、聞いてんのか!
「だから! 突っ立ってちゃどうしようもないでしょ! マリルリ、アクアテール!」
この修羅場の中でミユは意外なほど冷静だった。マリルリは、主人の声を聞くと勢いよく駆け出した。
――おや、キングドラにアクアテールとはどういうことか? タイプ相性はかなり悪いのだが?
後ろで見ていたヒロの疑問はすぐに氷解した。マリルリは尻尾をぴんと伸ばし、思い切り振りかざすと……スピナの背中に命中したのだ。
地面に対してほぼ平行な超低空飛行である。
一方キングドラは、ターゲットが突然わめきながら飛んできても全く意に介さないようだったが、すぐに事件は起きた。
スピナと正面衝突し、後ろに跳ね飛ばされ、そのまま意識を失ってしまったのだ。
ポケモンにも急所はある。思考を操る脳は、人間と同様に重要な箇所である。キングドラは今の衝突で、脳震盪を起こし、戦闘不能となった。
さすがの黒服もこれには驚いたが、理性を失ったカブトプスには関係なかった。キングドラがやられたと見るやすぐにスピナに向かう。
「おおお? 今度はカーブトプスのお出ましかい!」
またもターゲットにされてしまったのだが、もう驚かなかった。あるいは、先の衝突で脳から慎重さが吹っ飛んでいたのかもしれない。
「ワカシャモッ! レディ・ゴー!」
華麗に一回転してボールを高く投げ上げた。飛び出してきたワカシャモは大雨に一瞬ひるんだが、すぐに持ち直した。
「岩タイプには格闘技だぜ! 『二度蹴り』だ!」
低い姿勢で弾丸のように飛び出し、銀色に光る鎌を潜り抜け至近距離から腹に蹴りをぶち込んだ。カブトプスの動きが止まる。
「よっしゃあ! 決着……」
ではなかった。カブトプスの頭ががくんと下がり、ワカシャモをにらみつけた。
同時に二本の鎌を上空で交差させ、一気に振り下ろした。ワカシャモは地面を蹴って退こうとしたが、すでに攻撃は終わっていた。
胴体は深く切り裂かれ、傷跡からは血しぶきが舞った――一命は取り留めたようだが、もう戦闘がどうのという話ではない。すぐに治療を受けなければならなかった。
スピナは呆然と立ち尽くした。ワカシャモをボールに戻すことさえ忘れている。冷静なミユもこの光景には顔を覆わずにはいられなかった。
そして黒服も、こんなことを望んではいなかった。膨大な力を得るのと殺傷するのとではわけが違う。
しかし時すでに遅く、狂猛な鎌を持つ者にとっては、目に映るものは全て狩りの対象でしかなかった。
時間が止まったかに思えたその時、湖から大音響とともに巨大なものが飛び出してきた。
6メートルはある巨体に、深紅の体。見紛うことなく、それは伝説の赤いギャラドスだった。
神々しささえ漂うその姿は、ホウエン地方の神話に現れるレックウザに似ていた。この深紅の竜も、争いを鎮めに来たのだろうか?
(#80 W 10.12.18)
前ページ<< 一番上に飛ぶ▲ >>次のページ